上七軒
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.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}日本 > 近畿地方 > 京都府 > 京都市 > 上京区 > 上七軒上七軒の町並み 2016年

上七軒(かみしちけん)は、京都市上京区真盛町から社家長屋町に位置する花街である。

室町時代北野天満宮の再建の際に残った資材を使って7軒の茶店を建てた。これが「上七軒」の由来で、桃山時代豊臣秀吉北野で大茶会を開いた折に茶店側は団子を献上したところ大いに誉められて以来、また西陣の結びつきで花街としての繁栄を極める。

毎年になると上七軒歌舞練場で『北野をどり』が上演されて少数ながらにして良い技芸を磨き披露している。舞踊の流派は明治以前は篠塚流、その後は花柳流。茶道は西方尼寺で習っている。

現在(2015年)、お茶屋10軒、芸妓舞妓合わせて31名である。
歴史

上七軒お茶屋組合
上七軒歌舞会
上七軒 紋章
設立室町時代
種類花街
目的遊興、芸能
本部 日本
京都市上京区
ウェブサイト上七軒歌舞会
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江戸時代までの経過上七軒 2005年 電線地中化前の町並み

江戸期に下の森五番町に茶屋株を貸し、芸妓中心の花街として発展し、江戸末期に土方歳三が上七軒の芸妓、舞妓を相手にした逸話があるが不明である。
明治以後北野をどり

上七軒は戦前まではお茶屋50軒、芸妓、舞妓あわせて60名で娼妓も3名いたが第二次世界大戦でお茶屋の大半が転廃業し、1945年ごろに再開。そのころはお茶屋35軒、芸妓50名ぐらい(舞妓は襟替え等で含まれていない)いたが西陣織産業の衰退により減少し、芸妓数も20名以下に落ち込んで、歌舞会所属の舞踊学校で習っている優秀な生徒に対し組合が北野をどりへの出演を要請していた時期もあった。その中で芸妓が生まれている。

その間、お茶屋『吉田家』の娘であるひろ子が戦後で初の舞妓として店出しをしたが、後に襟替えをし、舞妓はしばらくは消滅した。しかし1981年3月、石川県出身の梅ぎくが久々の舞妓として店出し、多くの関係者に祝福を受け、彼女の後に次々と舞妓が誕生していく。1990年代前期、歌舞会は雑誌、テレビなどで舞妓募集を呼びかけ、事実7名の舞妓が生まれたが、伝統を重んじる一部の反対により頓挫した。しかし、近年インターネットがきっかけで舞妓に志願する女性の数が再び増加してきている。2015年現在、舞妓は8名である。その他にOLや薬剤師、大学卒業生から芸妓への転身を遂げた女性もおり、世間に話題を提供した。

お茶屋、芸舞妓の増減が激しい上七軒だが、室町時代から続く伝統を大事にしながら新しい方向へ歩みだしている。2001年、上七軒一帯は上京北野景観整備地区に指定され、2010年3月25日、明治30年代建築の歌舞練場が大規模改修工事を終え、4月中旬に公演されていた北野をどりを58年振りに繰り上げ、?落とし公演として他の花街よりも早く上演された。上七軒 案内碑

2013年2月、上七軒通電線地中化工事が完成、常夜灯を設置した石畳風舗装の道路に生まれ変わった[1]
関連項目.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、上七軒に関連するカテゴリがあります。

花街

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ビヤガーデン(7月 ? 8月)

ずいき祭

寿会

事始め

脚注^ “ ⇒上七軒、すっきりどす「北野をどり」前に無電柱化完了”. 京都新聞 (2013年3月4日). 2016年1月25日閲覧。

外部リンク

上七軒歌舞会|公式ウェブサイト

上七軒公式ホームページ・匠会

歴史的環境としての花街とまちづくり―北野上七軒を例に竹中聖人、立命館大学Core Ethics Vol. 2(2006)

座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度01分47秒 東経135度44分12秒 / 北緯35.029807度 東経135.736728度 / 35.029807; 135.736728 (上七軒)










京の花街
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上七軒

嶋原

花街の「をどり」

都をどり

鴨川をどり

京おどり

北野をどり

祇園をどり

現存しない花街(遊廓)
年号は廃止年を表す

明治・大正・昭和初期

清水新地(1873年)

白梅図子(〃)

辰巳新地(1874年)

三本木(1876年)

壬生(1881年)

下河原(1886年)

二条新地(1887年)

墨染(1911年)

五条橋下(1912年頃)

下の森(1926年頃)

売春防止法施行時(1958年)

五番町

七条新地

撞木町

橋本八幡橋本

猪崎福知山

新浜(宮津

朝代舞鶴

龍宮(同)

売春防止法施行後

中書島(1970年)

五条楽園(旧・七条新地、2011年)


教育機関

八坂女紅場学園

東山女子技芸学校

鴨川学園

関連用語

置屋

お茶屋

歌舞練場

芸妓

太夫

舞妓

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