三鬼隆
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三木たかし」、「三木隆司」、あるいは「三木孝志」とは別人です。
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三鬼隆

三鬼 隆(みき たかし、1892年1月14日 - 1952年4月9日)は、日本の実業家。第二次世界大戦後に日本製鐵(現・日本製鉄)社長を務め、日鐵解体後は八幡製鐵の初代社長となった。日本経営者団体連盟(旧日経連)の第2代会長(代表常任幹事)を務めるなど財界に重きをなしたが、航空機事故(もく星号墜落事故)で遭難死した。父は実業家・政治家の三鬼鑑太郎。長男は元新日本製鐵会長の三鬼彰
生涯
生い立ち

1892年(明治25年)、岩手県盛岡市に生まれる[1][注釈 1]。父の三鬼鑑太郎は当時岩手県庁の官吏であったが、のちに実業界(花巻軽便鉄道社長[注釈 2])から衆議院議員(1936年当選)に転身する人物である[1]。五男四女の二男であるが、兄が夭折しているために、実質的には長男として育っている[1]

盛岡師範学校付属小学校(現在の岩手大学教育学部附属小学校)を卒業後[3]、盛岡中学(現在の岩手県立盛岡第一高等学校)に入学[4]第二高等学校を経て[4]、東京帝国大学(現在の東京大学)に入学[4]。1917年、東京帝国大学法科大学独法科を卒業[4]。卒業後は1年間、就職浪人生活を送った[4]
釜石と三鬼
田中鉱山と「真道会」発足

1918年(大正7年)に父の友人の伝手で田中鉱山東京本社(釜石鉱山を経営する、日本製鉄の源流企業のひとつ)に入社[4]。田中鉱山は1917年に株式会社組織に改組したばかりで[4]、依然として田中家の一族が経営する商家の雰囲気を残していたという[4]。三鬼は東京帝大卒の法学士としては最初の採用[4]で、社長の長男・田中長一郎の下で調査課に配属された。1919年(大正8年)11月から12月にかけて、釜石では激しい労働争議が展開された[5]。このさなかの12月、三鬼は本社から釜石に派遣され、連絡員の役割を務める[6][注釈 3]。翌年3月には田中鉱山釜石鉱業所の庶務主任として釜石に転任することとなった[7]

1920年(大正9年)2月11日、激しい争議の「苦い経験に鑑み」、労使協調組織(工場委員会)として「真道会」が発足したが[8]、その発案者は三鬼と見なされている[8]。「真道会」は、子弟・家族のための学校設立(工業補習学校や裁縫教授所)、休憩所への洗面所設置、葬儀用具の貸与など、家族をも含めた生活一般にわたる事柄を扱い、水泳場・理髪室の設置や、文化サークルの設立など、企業内の福利厚生を実現させた[8]。1920年(大正9年)11月14日には職員・職工・家族が参加する「大運動会」が鈴子公園グラウンドで盛大に開催された[8]。運動会には労使協調の雰囲気づくりが意図としてあるとみなされるが[8]、当時の上司には理解されず、翌年には運動会は行われず、活動写真を上映する慰安会が行われるにとどまった[9]。三鬼も「不本意」な形で本社に転勤となった[9]
三井のもとで

第一次世界大戦後の不況により、1924年(大正13年)に鉱山の経営は三井に譲渡された[4]。三鬼は釜石鉱山本店・庶務主任となるが、釜石鉱山会長・牧田環の秘書として抜擢され[10]、1928年(昭和3年)に釜石鉱業所庶務課長として再び釜石に赴任する[4]。釜石に戻ってきた三鬼は、かつては遊びと見なされたスポーツの愛好者が増え、非公式ながら「競技部」ができたことに気をよくしたという[4]。1931年(昭和6年)に釜石鉱業所事務長に昇任[4]

会社主催での大運動会も復活し「釜石市の名物」として定着することとなった[9]。また、三鬼を中心として職員の文化(謡曲)やスポーツのサークルも組織化される[10](これについて高木俊之は、課長クラスの職員との交流・薫陶の場として機能していたと分析している[11])。陸上競技部には佐々木正雄(短距離走)・和賀行男(走高跳・十種競技)・横田孝(砲丸投)ら全国レベルの選手が三鬼に招聘されて籍を置くようになり[11]、三鬼が部長として強化に当たった硬式野球部は、のちに都市対抗野球大会(1938年、第12回)に出場するに至っている[12]。また、三鬼は釜石町の野球協会会長をも務め、地域社会のスポーツ振興にもあたった[12]

なお、「真道会」は地方選挙とのかかわりにおいても特筆される[13]


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