三閉伊一揆
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三閉伊一揆(さんへいいっき)は、弘化4年(1847年)および嘉永6年(1853年)に南部藩で起きた百姓一揆。三閉伊通一揆とも呼ばれる。

同藩は領内を33の「通(とおり)」に分けて統治していたが、このうち九戸郡および閉伊郡の両一帯は、野田通・宮古通・大槌通の3つの「通」から成り、各々代官所が置かれていた。これら3つの通りは同藩領内における現在の三陸海岸地域にあたり、一括して「三閉伊通」あるいは「海辺道[1]」と総称されていたため、前者の名を採って一揆の名称となっている[2]
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寛政4年(1792年)にラクスマン来航事件が起きると、翌年には江戸幕府からの命令により、南部藩は兵を出して根室函館の守りを固めることになり、財政負担が増加した[3]文化2年(1805年)に幕府は、蝦夷地警護松前出兵の功績から南部藩を10万加増して石高20万石としたが、これは知行域の増加を伴わない表高の加増であったため、実質収があがらないのに20万石相当の軍役を負担させられることを意味し、藩財政は窮迫した[4]

南部藩は当時の稲作の北限地区であるにもかかわらず、水稲生産を強行したため、江戸時代後半の冷涼な気候(小氷期)と合わせて連年凶作に見舞われており、民衆も困窮していた。藩は目安箱を設置するが、記名式だったため民意を聞くのに用いられず、罪人を糾明する証拠集めに悪用された。また、以下のような悪政が行われていた。

藩は負債を次から次へと作り、それを新税や重税で解消しようとしたこと。

海産業を主とする三閉伊地方(三陸海岸沿岸部)に水稲の基準で重税を課したこと。

三閉伊地方の産業(漁業製材業・製鉄業)に御用金制度を用い、無理な課税を行ったこと。

「軒別税」と呼ばれる人頭税を実施したこと。

藩札「七福神」の大量発行によるインフレーションが発生したこと。

幕府の手伝い普請(公共工事手伝い命令)による臨時課税があり、これを御用金で補ったこと。

さらに、財政難から武士の禄を長期にわたって借上したこと。

これらによって、民衆の不満は高まっていた。
盛岡南方一揆

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天保7年(1836年)暮、盛岡南方一揆(盛岡強訴)が発生する。連続する大凶作のなか、南部藩の度重なる御用金の賦課や藩札の乱発行によるインフレーションなどに対し、御用金の免除などを要求し各村々がめいめいに強訴を行った。南部藩は一旦要求を受け入れたが、一揆解散後約束を取り消し、首謀者を処罰した。また、政治は一揆以前と何の変化もなかった。

さらに天保8年(1837年)初め、盛岡南方一揆(仙台越訴)が発生する。前年の一揆とは異なって領民は仙台に逃散し、南部藩を非難した。南部藩は一揆衆を取り戻すため、首謀者を処罰しないことを約束し、仙台藩は幕府に内密にすることを約束した。しかし南部藩は一揆衆を取り戻した後、約束を破って首謀者を処刑した。このため領民は南部藩を軽視するようになった。その後、南部藩は目安箱を設置した。
1847年 南部三閉伊一揆 遠野強訴

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