三重県護国神社
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三重県護国神社

所在地三重県津市広明町387
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度43分58秒 東経136度30分31秒 / 北緯34.73278度 東経136.50861度 / 34.73278; 136.50861
主祭神国事殉難者
社格等内務大臣指定護国神社・別表神社
創建1869年(明治2年)
例祭4月22日
10月22日
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神紋である桜を施した御朱印帳

三重県護国神社(みえけんごこくじんじゃ)は、三重県津市にある神社護国神社)である。禁門の変戊辰戦争から第二次世界大戦までの三重県関係の戦歿者6万3百余柱を祀る。これらの祭神は靖国神社の祭神と基本的に重なるが、護国神社が独自で招魂したものであるから、靖国神社とは本社分社の関係にはないとされる。

近年では、三重県の守り神、子供の神様として県内外から篤い崇敬を集めている。社紋は桜紋であり、靖国神社や護国神社の多くは社紋に桜を用いている。刊行物に『三重護国』があり、現在は春秋の年2回発行されている。創刊は1960年(昭和35年)10月である。創刊号は16頁にも及び、三重県知事田中覚、三重県議会議長小久保久吉、津市長角永清、三重県町村会長西浦清乃助、神社本庁統理佐々木行忠神宮大宮司坊城俊良、靖国神社筑波藤麿、三重県遺族会会長斎藤昇ら各界の著名人が寄稿している。
歴史 ?明治時代?

三重県護国神社の歴史は1869年明治2年)、第11代津藩主であった藤堂高猷が、戊辰戦争で戦死した藩士の霊を祀る小祠を津八幡宮の境内に建て、「表忠社」と称したのに始まるとされている。これは幕末の長州藩薩摩藩らが国事殉難者、戦没者の御霊を祀るために招魂場を設けて招魂祭を営んでいた事が淵源となっている。幕府のみならず、朝廷においても1868年(慶応4年)5月10日の太政官布告「癸以来唱義精忠国事ニ斃ルヽ者ノ霊魂ヲ慰シ東山ニ祠宇ヲ設ケテ之ヲ合祀セシム」と「東山ニ一社ヲ建テ当春伏見戦争以来戦死者ノ霊魂ヲ祭祀セシム」とにより、1853年(嘉永6年)以来の国事殉難者と伏見戦争以後の戦死者を京都東山に建立した祀宇(霊山官祭招魂社、後の京都霊山護国神社)に合祀するなど、慰霊に対する気運が高まっていた事が分かる。

1874年(明治7年)3月17日の内務省達乙第22號によっていわゆる官祭となった。内務省達乙第22號の内容は「戊申己巳之際従軍殉國ノ者戦没ノ地及其他各所ニ於テ舊藩主或ハ人民共私設致シ候招魂場ノ儀ハ永ク忠士ノ魂魄ヲ御吊慰被為在候御趣意ヲ以テ自今其所在ノ地税ヲ免シ祭祀?修繕共一切官費支給可致旨被仰出候ニ付此旨相達候事」であり、招魂場敷地の地租免除と祭祀や修繕にかかる費用には官費を支給すると明記されている。

翌1875年(明治8年)10月13日に出された内務省達乙第132號によって招魂社となった。内務省達乙第百132號の内容は「各管内ニ設置有之招魂社ノ儀従前其所在ノ地名等種々ノ社號ヲ附シ來候向モ有之候處自今種々ノ社號ハ都テ相廢シ一般招魂社ト相唱候様可致此旨相達候事」とあり、三重県のみならず東京都(当時の東京府)を除く全ての招魂社の名称を統一した。

東京にあった東京招魂社は1879年(明治12年)6月4日の「東京招魂社靖國神社ト改稱別格官幣社内務陸海軍三省管理祭典其他常務取扱區分」によって現在の社名である靖國神社と改称し、別格官幣社という社格に列せられた。

1886年(明治19年)6月28日に西南戦争戦没者の御霊の合祀祭申請が有志総代から提出された。以下は、その原文である。

台湾西南両役従軍殉難ノ霊ヲ招魂社ヘ合祀願

伊勢國安濃郡八幡町八幡神社境内ニ鎮祭スル招魂社ノ義ハ舊津藩藤堂家ニ於テ戊辰巳己ノ際摂州山ア及奥羽ノ役ニ戦死ノ士卒ヲ祀リ明治八年以来特ニ官祭ニ被列候モノニ有之茲ニ明治八年 王師台湾ニ向フテ罪ヲ問ヒ曁ヒ十年西南ノ賊ヲ討セラルルニ當リ縣下ノ士民軍ニ従ヒ 王事ニ死スル者三百七拾八人奮テ王の愾ニ敵シ砲弾ヲ冒シ白刃ヲ踏ミ遂ニ其身ヲ致ス其忠勇壮烈縣下人民ノ?モ敬愛シ?モ尊重スル所ニ有之候而メ此三百七拾八人ノ者ハ幸ニ靖國神社ニ合祀セラレ優渥ノ祀典ヲ享ルヲ得タリト雖モ縣地ノ東京ヲ距ル百有餘里其父子親戚及縣下人民盛儀ヲ拝シテ敬愛尊重ノ意ヲ致ス能ハス誠ニ遺憾ノ至ニ御坐候就テハ前述招魂社ノ義ハ去ル十四年十月中西南戦死ノ内合祀ヲ許サレタル者モ有之ニ付尚其他縣下人民ノ両役ニ戦死スル者ノ霊ヲモ合祀ノ義御許可相成候様仕度然ル上ハ歳時祀典ヲ奉行シテ忠魂義魄ヲ慰メ敬愛尊重ノ誠ヲ致シ以テ一般各其尽ス所ヲ知ラシメント冀望仕候尤合祀者ニ係ルモノハ勿論私祭ノ筈ニ付何卒至急御免許被下度別紙合祀者人名相添有志者総代連署ヲ以テ此段奉願候也

有志総代

伊勢國安濃郡八幡町

これを受け、同年7月3日に三重県令から内務大臣へ願出が出された。以下は、その原文である。

官祭招魂社へ合祭之義ニ付伺

伊勢國安濃郡藤方村字八幡町

郷社八幡神社境内

官祭招魂社

右ハ舊津藩士戊辰巳己之際戦死候者ヲ祀リタルモノニテ去ル十四年十月中経伺ノ上同社最寄郡内ノ西南ノ役ニ戦死候者ヲ合祭許可致置

候處尚又今般縣下ノ者ニテ征台及西南ノ役ニ戦死セシモノヲモ私費ヲ以テ合祭致度旨別紙之通願出候右ハ一般ノ奨励トモ相成風教ニ関係不尠候ニ付御許可相成候様仕度此段相伺候也

明治十九年七月三日

三重縣令石井邦猷


 内務大臣伯爵山縣有朋殿

上記の申請に対して、同年8月12日に「書面伺之趣八月三日付上申之三拾四名ヲ除キ私費合祭之儀聞届候事」との回答をもらった後、合祀祭を斎行し、招魂社に祭神が増えていく契機となる。1901年(明治34年)には「招魂社墳墓ニ官祭官修ノ文字ヲ冠スルノ件」によって官祭招魂社と改称した。この官祭招魂社に指定されない招魂社は区別して私祭招魂社と呼ばれた。その後、1908年(明治41年)1月11日に郡市長会に於いて移転改築の決議がなされ、遷座の準備が始まる。翌年の1909年(明治42年)4月17日には改築移転の件について内務大臣の許可を受け、同月29日に地鎮祭を行い、同年6月10日に上棟際、9月17日に新殿祭、18日午後7時より正遷宮式を行い、翌19日午後7時より新祭神合祀祭を行った。
歴史 ?昭和時代以降?

1939年(昭和14年)3月15日の内務省令第12號「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」により社名を官祭招魂社から三重縣護國神社へ改称し、同省令13號「護國神社例祭、鎮座際及合祀祭祭式及祝詞左ノ通定ム」により祭式と祝詞が規定されたが、これは前年1938年(昭和13年)12月15日に神社制度調査会会長水野錬太郎によって出された招魂社制度改善整備要綱がもとになっている。この要綱では6つの事項について提案がされている。以下はその内容である。

(一)社名及社格ニ関スル事項
 社名「招魂社」ハ之ヲ「護國神社」ト改稱シ、社格ハ従前ノ通之ヲ附セサルコト
(二)祭祀ニ関スル事項
 祭祀ニ関シテハ府縣社以下神社ニ関スル法令ノ適用ヲ明ニスルト共ニ、新ニ其ノ鎮座際及合祀祭ヲ大祭ニ加ヘ、且祭式及祝詞ヲ其ノ實状ニ適合セシムル様考慮スルコト
(三)神職ニ関スル事項
 現行受持神官ノ制度ヲ廃シテ新ニ左ノ区分ニ依リ府縣以下神社ト同様社司、社掌ヲ置クコト
 (1)内務大臣(外地ニ在リテハ其ノ長官)ノ指定スル護國神社
  社司 一人
  社掌 若干名
 (2)其ノ他ノ護國神社
  社掌 若干名
(四)神饌幣帛料供進ニ関スル事項
 現制ニ於テハ所謂官祭ノ制ヲ存シ、明治八年以降百四社に限リ毎年定額ノ國費ヲ給スルモ、右ハ其ノ儘之ヲ存置シ、別ニ地方公共団体ヨリ其ノ例祭、鎮座際及合祀祭ニ付神饌幣帛料ヲ供進シ得ルノ途ヲ開クコト
(五)財産及会計ニ関スル事項
 財産及会計ノ取扱ニ関シテハ府縣社以下神社ニ関スル法令ノ適用ヲ明ニシ、以テ財産ノ格護ト金銭ノ精確トヲ期セシムルコト
(六)護國神社ノ創立ニ関スル事項
 護國神社ノ創立ニ付テハ、市町村等ヲ其ノ崇敬区域トスルモノハ獨立神社タルト境内神社タルトニ拘ラス原則トシテ之ヲ認メサル様考慮スルコト


幣帛供進使として奉仕する小河知事

1939年(昭和14年)4月1日の内務省告示142號「明治二十七年勅令第二十二號第一條第一項ノ規定ニ依リ左記護國神社ヲ指定ス」によって指定護國神社となる。この時、指定護国神社に指定されたのは全国で北海道護国神社から鹿兒島縣護國神社までの34社で、以後必要に応じて追加指定され太平洋戦争末期までに51社が指定された。指定護国神社は1府県1社を原則として指定されたが、崇敬地域が広域であった北海道では3社が指定され、岐阜県・兵庫県・島根県・広島県は2社が指定された。また、国外にも内務大臣指定護国神社に相当する、樺太庁長官指定の樺太護國神社(豊原市)、台湾総督指定の台湾護國神社台北市)、朝鮮総督指定の京城護國神社(京城府)及び羅南護國神社(清津府)が存在した。1945年(昭和20年)の空襲で本殿・神饌所以外の建物を焼失した。第二次世界大戦後には社名を「三重神社」に改称していたが、日本が主権を回復したことを機に1953年(昭和28年)に元の社名に復した。また、この年に県議会議長と知事宛てに「三重縣護國神社復興造営に関する請願」が出された。この請願は護国神社の存在意義を明らかにする面において極めて重要であるから、以下にその全文を引用する。三重縣護國神社は縣下出身の全英霊を奉齋する本縣唯一の施設でありまして其の祭神は何れも身命を惜まず國家の至上命令に従って國難に殉ぜられた譽ある勇士であります 其の純忠の精神 報國の心魂は以て國民の範とすべく 平和國家の再建に際しても 最も尊ぶべき犠牲的精神の権化であり永遠に追慕景仰すべきであると考へます

然るに終戦後占領政策による壓迫は我が國の諄風美俗を悉く葬り去らんとする有様で殉忠至誠の英霊に報いる術もなく 骨肉の遺族をして血涙を絞らしめ洵に遺憾の極みでありました
幸にして昨年 待望久しかりし祖國独立の喜を迎へて以来 縣市町村の格別の配慮により本神社維持方策の確立を見るに至った事は洵に感銘に堪へない次第であります
翻って本神社の重要施設たる拝殿社務所其の他附属建物は昭和二十年七月の空襲により焼失の災厄に遭ひ辛じて難を免れた本殿も明治四二年の造営に係り既に四十有五年の歳月を経て腐朽甚だしく其の復舊造営は焦眉の急を告げている状況にあります 加ふるに境内狭隘にして祭祀執行に際し甚だしく支障を来している實状に鑑み之が拡張造営を要望する聲は今や巷に満ち溢れているのであります 申す迄もなく國家の礎石として一身を犠牲に供した縣下五萬英霊の冥福を祈り芳烈なる偉勲を顕彰して後昆に朽ちしめないことは吾々縣民としての義務であると共に将来國民精神作興の上にも寄与する所が多大であると思惟するものであります 即ち本神社の施設の充實と完璧を企圖することは最も喫緊の業であると深く信じて疑わぬ所であります
冀くは縣下遺族の念願と縣民多数の要望を容れられ實状充分御査覈御検討の上本請願を御採擇せられ速に適切なる復興計画を樹立せられんことを切望して已まない次第であります茲に本縣民を代表して請願致します
 昭和二十八年十二月

各郡町村会長 署名捺印
各郡町村議会議長 署名捺印
三重縣遺族会会長 署名捺印
各市郡遺族会長、婦人部長 署名捺印
神社総代 署名捺印

三重縣護國神社宮司 仲 公 捺印

三重縣議會議長 倉朝次郎殿
三重縣知事 青木 理殿

上記の請願を受けて、昭和29年3月に三重縣護國神社造営奉賛会が発足した。造営奉賛会の趣旨書は以下の通りである。  三重縣護國神社造營奉賛會趣旨書
 阿漕の浦に鳴く千鳥聲はすれども姿は見えず、實に懐しく仰ぎまつる三重縣護國神社は戊申の役来の五万餘柱に及ぶ吾が郷土出身の御英靈をお祀りする本縣唯一の神社であります。
 これら御祭神の神々は何れも身を鴻毛の輕きにおき只管國運の隆昌と世界の平和とを祈りつつ國難に殉ぜられましたる靖國護郷の勇士でありまして平和國家の再建に努力しつつある吾々と致しましては片時も忘れることの出来ないところであります。
 殊に弓矢鞆の音聞かざる國とて誇る伊勢の護國の神として誠にうるわしく聖地三重縣民擧つて其の功績を稱え奉り永久に追慕景仰申上げたいと存じます。
 然るに其の社殿や諸施設は殆ど戰災に遭い辛うじて免れましたる本殿も腐朽甚だしく且境内も狭隘のため参拝者の方々に非常な御不便をかけて居るのでありますから私等崇敬者として洵に恐懼に堪えない次第であります。
 今回圖らずも神宮より東寶殿の古殿舎を下賜されましたので同志相寄り相議りまして本殿はもとより教化の講堂並に遺族會館等文化的施設をも附設して縣下崇敬者のみ靈の寄り所として立派な御社殿を一日も速かに完成し御神慮を慰めまつると共に大いに社會福祉の増進を圖り以て新時代の要請に應え得るよう熱願して本會を設立することになりました。


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