三里塚闘争
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.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}成田国際空港 > 成田空港問題 > 三里塚闘争

三里塚闘争
1967年
日時1966年6月22日 - (継続中)
場所千葉県成田市および山武郡芝山町
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度45分55秒 東経140度23分08秒 / 北緯35.76528度 東経140.38556度 / 35.76528; 140.38556座標: 北緯35度45分55秒 東経140度23分08秒 / 北緯35.76528度 東経140.38556度 / 35.76528; 140.38556
原因十分な地域住民への説明が行われないままになされた計画決定が、「空港は農民の生命である農地を破壊する」との素朴な農民感情を惹起。これが「ボタンのかけ違い」の端緒となり、革新政党の指導や過激派新左翼)支援の受け入れにより問題が複雑化した[1][2]
手段デモ活動座り込み暴動テロ
参加集団

三里塚芝山連合空港反対同盟全日本学生自治会総連合

指導者

戸村一作

死傷者数
死者警察官4人→東峰十字路事件(3人)、芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件(1人)
工事作業員2人→東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件
収用委員会会長1人→千葉県収用委員会会長襲撃事件の後遺症を苦に自殺
航空機メーカー役員の家族1人→日本飛行機専務宅放火殺人事件
反対派活動家3人→東山事件(1人)、成田空港管制塔占拠事件(2人、うち1人は刑事施設での拘禁反応で発症した精神疾患による自殺)
反対派農民1人→自殺

三里塚闘争[注釈 1](さんりづかとうそう)は、千葉県成田市農村地区である三里塚とその近辺で発生し継続している、成田市・山武郡芝山町の地元住民および革新政党新左翼活動家らによる新東京国際空港(通称:成田空港、2004年4月1日以降の正式名称は成田国際空港)の建設または存続に反対する闘争(紛争)。成田闘争[注釈 2](なりたとうそう)とも呼ばれる。
概要「成田空港問題の年表」も参照闘争で新左翼党派や反対同盟員が使用した装備(成田空港 空と大地の歴史館展示)

三里塚闘争は、1966年7月4日に「新東京国際空港の位置および規模について」との閣議決定で空港の建設地が現在の位置に決定するまでの経緯ならびに空港用地内外の民有地取得問題および騒音問題への懸念などにより、空港建設に反発する地元住民らが革新政党指導の下で結成した、「三里塚芝山連合空港反対同盟」による反対運動をその源流とする[9][10][11][12]

反対運動は当初、日本共産党日本社会党の支援を受けていたが、反対同盟が1967年8月16日に「あらゆる民主勢力との共闘」として敵対する新左翼党派(反代々木派)の受け入れを表明した。新左翼党派との合同で反対運動が過激化し、新左翼と対立している日本共産党と反対同盟との関係にも亀裂が生じた。同年12月15日に反対同盟は日本共産党の支援と介入を排除する声明を発表し、日本共産党の党員や支持者だけでなく、日本共産党支持の住民も反対運動から排除された[13][14]。1968年4月6日には、空港公団は条件賛成派地元住民4団体との間で「用地売り渡しに関する覚書」を取り交わしたことで、空港用地の民有地部分の89%(597ヘクタール)を確保している[15]。日本社会党は初期から1970年代には反対運動を積極的支援していたものの、新左翼が主導する過激な反対運動を擁護することへの世論の批判が強まった1980年代には手を引いた。日本社会党は、成田空港賛成派&条件賛成派からは反対運動を積極的に支援してきたことを、反対派からは置き去りにして反対運動から撤退したことを、それぞれ批判されている[13][16]

1967年8月から新左翼が本格的に入り込み、世界の空港建設史上の中でもまれにみる難航を重ね[17]、激しい闘争によって開港が当初予定より大幅に遅れただけではなく、双方に死者を出す惨事をもたらした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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