三里塚芝山連合空港反対同盟(北原派)
三里塚芝山連合空港反対同盟の立看「農地取上げを許さない」
設立1983年3月8日
設立者戸村一作
目的成田国際空港反対
本部 日本千葉県成田市天神峰63
重要人物北原鉱治、市東孝雄
ウェブサイト ⇒三里塚芝山連合空港反対同盟
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三里塚芝山連合空港反対同盟大地共有委員会〈II〉(旧熱田派)
設立1966年8月22日
目的成田国際空港反対
本部 日本千葉県山武郡芝山町
重要人物柳川秀夫(世話人)
ウェブサイト ⇒三里塚芝山連合空港反対同盟大地共有委員会〈U〉
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三里塚芝山連合空港反対同盟(さんりづかしばやまれんごうくうこうはんたいどうめい)は、日本国政府による新東京国際空港(現・成田国際空港)建設およびそれに伴う土地収用の強権発動に反対して結成された周辺住民の団体である。
1966年に結成。1983年の分裂により、現在は主張や後援組織の異なる2つの同名の団体が別個に活動している。
概要天神峰現地闘争本部(2009年撮影、2011年撤去)滑走路北延伸阻止の立看板反対派が実際に着用していたヘルメットかつて使用されていた少年行動隊の旗かつて使用されていた連絡用のドラム缶以前用いられていた立木トラストの札。当時反対同盟と連帯していた日本社会党の重鎮、佐々木更三と成田知巳の名がある。
三里塚芝山連合空港反対同盟は、新東京国際空港建設およびそれに伴う土地収用等に反対する地域住民が1966年8月22日に結成した[1]。略称は「空港反対同盟」、「反対同盟」。
1970年から1971年当時は340戸の農家が反対同盟に参加していた[2]。
空港予定地内に土地を持つ地主の農民をはじめ、予定地内周辺の成田市三里塚および芝山町の住民が結集し、『青年行動隊』(青行隊)をはじめとして『老人行動隊』(元「明治行動隊」、後の「老人決死隊」)、『婦人行動隊』、『少年行動隊』(少年行)を組織した。反対同盟は、反対派を排除して空港建設を進めるために日本国政府が現地に投入した警察官や機動隊等と長年対峙してきた。
反対同盟は、空港予定地内に団結小屋を建設して空港建設の監視・立てこもり等の妨害活動を行うと同時に、接収されていない農地(契約上は空港公団に渡っているものも含む)での営農を互助した。
反対同盟は、日本の新左翼の支援を受けて機動隊を始めとする公権力と激しい衝突を繰り返してきたことで知られており、機動隊員3名が死亡した東峰十字路事件もその過程で発生している。このような運動に対して、保守派のみならず日本共産党、日本社会党の一部、社会主義労働者党(社労党、現在はマルクス主義同志会などに分かれている)などは批判を続けてきた。ただし、後述のとおり、日本共産党と日本社会党は反対同盟の立ち上げに深く関わっている。
1983年、反対同盟は「北原派」・「熱田派」と呼ばれる2つのグループに分裂し、支援党派との関係や運動の在り方を巡って対立した。更に1987年には北原派から平行滑走路(B滑走路)用地内で暮らす四戸の農家が離脱し、「小川派」を結成している。
1990年代に入ると、熱田派のメンバーの中で国側との話し合いの機運が生まれた(代表者の熱田一はこの動きを肯定しなかったため1990年に辞任。以降「旧熱田派」)。旧熱田派は「成田空港問題シンポジウム」及び「成田空港問題円卓会議」に参加して、運輸大臣・内閣総理大臣の公式謝罪を勝ち取った。これを機に成田国際空港の二期工事が進展し、1995年に小川派も組織を解散し、一戸の農家を除いて用地売却に応じた。2002年にはB滑走路が供用を開始している。
しかし、2000年代に入って以降も、2001年に東峰神社での伐採を巡る紛争が発生し、2011年に東京高等裁判所にて不退去罪で代表の北原鉱治を含む逮捕者を出す[3]など、国との話し合いに参加しなかった北原派を中心に争議が継続しており、旧熱田派の中でも闘争を未だに継続するグループが存在する。
北原派の顧問弁護団の事務局長を務めるのは、葉山岳夫(救援連絡センター代表弁護士)である[注釈 1][4]。