三都
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この項目では、日本の都市について説明しています。中国貴州省の自治県については「三都スイ族自治県」をご覧ください。

三都(さんと)

江戸時代に使用されていた日本三大都市を指す名称。すなわち、大坂江戸のこと。明治から昭和までの三府と重なる。本項にて解説する。

現代の三大都市圏の中心都市を指す例もある。その場合は、東京大阪名古屋を指す。

中世の日本三大都市である京・鎌倉奈良を、現代になって「中世の三都」と称する例も見られる[1]

1990年平成2年)から西日本旅客鉄道(JR西日本)が観光キャンペーンにおいて用いた、京都大阪神戸の三都市を指す名称。三都物語参照。
江戸の日本橋よりみる富士山葛飾北斎画、『富岳三十六景』・1830年

三都(さんと)は、一般に、近世において江戸幕府直轄だった都市のうち、その規模が極めて大きかった大坂江戸を指す。
概要

近世においては、江戸幕府が大名に対し一国一城令を発し、諸大名が武士城下町に集住させたことで全国規模で都市化が進展し、各地に消費都市が生まれた[2]。これは、各都市の内部において在地の商工業を発展させた一方、西廻り航路東廻り航路五街道をはじめとする国内航路・主要道の整備は日本の国内市場(一国市場)の形成を促し、遠隔地商業を発展させ、港湾や宿場に営まれた諸都市(港町宿場町)も発展した[2]。さらに平和が継続したことで、全国規模の文化交流や観光もさかんとなり、大都市を生む条件がここに生まれたのである[2]

のちに「三都」と並び称される江戸・大坂・京の三都市は、江戸時代はじめには三ヶ津(さんがつ)と呼ばれた。「津」とは港湾を意味しており、このうち京は内陸部に位置するものの、琵琶湖巨椋池淀川に面した伏見等を通じて摂津国はじめとする西日本一帯、近江国さらには東海地方北陸地方と結ばれる一大物流拠点であった。

都市を構成する「」は、道路の両側に間口が狭く奥行きの長い屋敷が立ち並んで向き合う形状の両側町が一般的であった。町の出入り口には木戸が設けられ、夜間は閉鎖された。町もまた、近世村と同様、諸役負担の単位であると同時に、道路橋梁の修理、防火、衛生機能などを共同でおこなう自治組織であった。町では町法(町掟・町式目)を定め、町役人が置かれ、町人の寄合の場として町会所を設けていた。
江戸江戸の新吉原仲ノ町(歌川豊国画、1795年

江戸は、徳川将軍家君主とする江戸幕府の所在地であり、「将軍のお膝元」と称される政治都市、最大の城下町であった[3]

近世以前には浅草寺品川湊あるいは利根川荒川多摩川に挟まれた港町宿場町であった。

1590年天正18年)の豊臣秀吉の関東攻めにより後北条氏が滅亡し、その後に入部した徳川家康による都市改造によって大きく成長した[3]

幕府の諸機関が設けられるいっぽう、旗本御家人に対する定府政策によって多くの直臣が集住し、また、参勤交代の制によって全国の大名屋敷(藩邸)も営まれ、その家臣や武家奉公人を含めた多数の武士とその家族が常時江戸に居住することとなった[3]

また、町人地には多くの町が密集し、さまざまな種類の商人職人や日用(日雇)らが集まって、近世最大の消費都市として繁栄した[3]

五街道も江戸の日本橋を起点に整備され、水運も整えられた。

これにともない、多くの物資が流れ込んでそれを扱う商工業者の人口も増加し、18世紀初頭には100万都市に成長、宝暦年間(1751年-1763年)には「日本第一の土地」とまで称されるようになっている。

江戸では、1657年明暦3年)の「明暦の大火」ののち、寺院武家屋敷の郊外移転が進み、両国橋新大橋永代橋など橋の建設もおこなわれた[3]

18世紀初頭には世界最大級の都市へと成長し、町の数の多さから俗に「大江戸八百八町」と称され、その住民の気風は「江戸っ子」と呼ばれる独特なものとなった[3][4]

江戸は巨大消費都市ではあったが、関東地方につくられた町であり、関東平野関東ロームが被覆し、本来は必ずしも農耕に適合しない土地であったため、周辺農村からの物資だけで江戸の消費をまかなうことは不可能であった。

その消費を支えたのが、流通都市大坂であった[4]
大坂大坂・四天王寺界隈(『摂津名勝図解』、初版1798年

大坂は、飛鳥時代奈良時代には貿易港の難波津、あるいはそれを擁する首都・副都である難波京などとして、また、戦国時代にあっては石山御坊寺内町として発展し、豊臣政権の成立後は、石山本願寺跡地に巨大な大坂城が築かれて、統一政権の拠点となった。


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