三遊亭金馬_(3代目)
[Wikipedia|▼Menu]

三代目 .mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}三遊亭(さんゆうてい) 金馬(きんば)
San'yutei Kimba the 3rd

1951年
本名加藤(かとう) 専太郎(せんたろう)
生年月日1894年10月25日
没年月日 (1964-11-08) 1964年11月8日(70歳没)
出身地 日本・東京府
(現・東京都墨田区
死没地 日本・東京都
師匠放牛舎桃李
初代三遊亭圓歌
名跡1.三遊亭歌当
(1913年 - 1915年)
2.二代目三遊亭歌笑
(1915年 - 1919年)
3.三遊亭圓洲
(1919年 - 1926年)
4.三代目三遊亭金馬
(1926年 - 1964年)
活動期間1913年 - 1964年
所属落語協会
(1923年 - 1934年)
東宝名人会
(1934年 - 1964年)
主な作品
「居酒屋」
「茶の湯」
「佃祭」
浮世床
受賞歴
1956年:第7回放送文化賞受賞
表示

三代目 三遊亭 金馬(さんゆうてい きんば、1894年10月25日 - 1964年11月8日)は、日本の落語家。大正・昭和時代に活躍した名人の一人。本名?加藤 専太郎[1]出囃子は「本調子カッコ」。当初は落語協会に所属、のちに東宝名人会に所属したが、実質的にフリーであった。

東京府東京市本所(現・東京都墨田区本所)生まれ。初代三遊亭圓歌の門下だが、名人と呼ばれた初代柳家小せんや、橋本川柳にも多くを学んだ[1]。読書家で博学。持ちネタの幅が広く、発音や人物の描き別けが明瞭で、だれにでもわかりやすい落語に定評がある[1]
経歴

1894年10月25日東京府東京市本所(現・東京都墨田区本所)に生まれる[2]。家業は洋傘屋。

小学校卒業後、本所林町[3]の実家を出て本所相生町[4]で経師屋をしていた伯父の元で奉公修行。近所にあった広瀬という寄席に入り浸り、はじめ講談(講釈)を志し、1912年に講談師の放牛舎桃李(放手金桃李、揚名舎桃李、二代目放牛舎桃林とも)に入門。しかし、講釈を始めると客が笑ってしまうことから噺家の方が向くといわれ、講談には見切りを付けた[2]

1913年12月、落語の初代三遊亭圓歌にスカウトされて入門、本名の加藤をもじった名前「三遊亭歌当」を名乗った[2]。入門して2年にも満たない大正4年、二ツ目に昇進し、三遊亭歌笑を名乗る。1919年末には三遊亭圓洲に改名し、翌1920年には入門から6年、26歳で真打に昇進した。師匠と反りが合わなかったにもかかわらず、後に名人上手と呼ばれた同時代の八代目桂文楽や六代目三遊亭圓生、五代目古今亭志ん生らと比べても異例のスピード出世である。

1926年4月、先代から贈与を受け31歳で三代目三遊亭金馬を襲名。1930年にはニットーレコード専属の噺家になり、以降、多くの落語をレコードに吹き込んだ。1934年には東宝の専属となり、東宝名人会の常連となるが、東宝系以外の寄席には出演しなくなった[注釈 1]。40歳であった。後に東宝傘下となった神田須田町の立花には時々出たが、他の寄席には「のせもの」(客演)として出たことはあっても通常の形で出ることはなかった。1949年に立花が廃業すると、そのままでは弟子たちの修行の場が得られないため、主な弟子は自分のもとから離した。たとえば、三代目三遊亭歌笑落語協会に所属する弟弟子二代目三遊亭円歌に、山遊亭金太郎落語芸術協会に所属する二代目桂小文治に預けている。小金馬(後の四代目三遊亭金馬→二代目三遊亭金翁)、は、NHKのテレビ番組『お笑い三人組』の収録で忙殺されており、あまりに忙しすぎて高座に上がりたくても上がることができないような状態であった。そのため四代目は、三代目の存命のあいだ師とともに終始東宝名人会に所属し、寄席には出なかった。三代目死後、四代目は落語協会に加入している。

1954年2月5日千葉県佐倉市タナゴ釣りの帰りに総武線の線路を歩き、鉄橋を渡っているときに列車にはねられそれが元で左足を切断する。奇跡的にも一命を取りとめた金馬は放送の約束が気になっていたのか、病院の手術台で麻酔が効き始めると『野ざらし』を一席うかがう[2][注釈 2]。半年後に退院し、高座にも復帰したが釈台で足を隠しての板つきであった[2]。出と引っ込みの時は必ず緞帳(どんちょう)を下ろしており、自分の不自由な足を見せないよう心がけたが、これは自分の大好きな釣りのせいだと思われたくない、という金馬の意地でもあった。そのおかげでファンは事故後も変わらぬ金馬節を楽しむことができた。1956年、第7回のNHK放送文化賞を受賞。

1964年11月8日肝硬変のため入院中の東京都新宿区慶應病院で死去[5]、70歳没。墓所は台東区永見寺。死ぬ直前、初代柳家小せんが、自ら新聞に死亡広告をだしたという例にならって金馬もまた死亡通知を作成した。
芸風・評価.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "三遊亭金馬" 3代目 ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2015年12月)

古典を中心に持ちネタの数が非常に多く、爆笑落語から人情噺まで幅も広かった。登場人物の描き別けがきわめて明瞭で聴き取りやすく、よく練られた構成も無駄なく確かで「楷書で書いたような落語」と評される。老若男女、誰にでもわかりやすく[1]、しかも過剰な演出はしない。ラジオの寄席番組に度々出演し、その芸風から親しまれた。

若い頃、第一次落語研究会の準幹部で実力派であり、旅回りの演芸一座(柳家金語楼も7歳の時、そこでデビュー)を持っていた二代目三遊亭金馬が、三遊派の分裂騒ぎで地方に旅回りに出たのに随行し、腕を磨いた。

1913年にはやはり落語研究会準幹部で噺のうまさに定評があった朝寝坊むらくが、四代目橘家圓蔵との立花家橘之助を巡る諍いから殴打事件を起こし、名前を返上して「橋本川柳」を名乗り、東京を離れ旅に出た。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:44 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef