三途の川
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出典検索?: "三途川" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2017年5月)
土佐光信画『十王図』にある三途川の画。善人は川の上の橋を渡り、罪人は悪竜の棲む急流に投げ込まれるものとして描かれている。左上には、懸衣翁が亡者から剥ぎ取った衣服を衣領樹にかけて罪の重さを量っている姿が見える。

三途川(さんずのかわ、さんずがわ)は、此岸現世)と彼岸(あの世)を分ける境目にあるとされる三途仏典に由来し、餓鬼道畜生道地獄道を意味する。ただし、彼岸への渡川・渡航はオリエント起源の神話宗教[1]からギリシア神話[2]にまで広く見られるものであり、三途川の伝承には民間信仰が多分に混じっている。
伝承の起源

三途川の出典は『金光明経』1の「この経、よく地獄餓鬼畜生の諸河をして焦乾枯渇せしむ」である。この地獄餓鬼畜生三途(三悪道)といい、これが広く三悪道を指して三途川と称する典拠であるといわれる。しかしながら俗に言うところは『地蔵菩薩発心因縁十王経』(略称:地蔵十王経)の「葬頭河曲。於初江辺官聴相連承所渡。前大河。即是葬頭。見渡亡人名奈河津。所渡有三。一山水瀬。二江深淵。三有橋渡」に基づいて行われた十王信仰閻魔大王は十王のうちの1人)による。

この十王経は中国で成立した経典であり、この経典の日本への渡来は飛鳥時代と思われるが、人々に知られるようになったのは平安時代中期[3]、信仰として広まったのは平安時代の末期とされる。正式には「葬頭河」といい、また「三途の川」・「三途河」(しょうずか、正塚)・「三瀬川」・「渡り川」などとも呼ばれる。

一説には、俗に三途川の名の由来は、初期には「渡河方法に三種類あったため」であるともいわれる。これは善人は金銀七宝で作られたを渡り、軽い罪人は山水瀬と呼ばれる浅瀬を渡り、重い罪人は強深瀬あるいは江深淵と呼ばれる難所を渡る、とされていた。
伝承
渡し舟

平安時代の末期に、「橋を渡る(場合がある)」という考え方が消え、その後は全員が渡し船によって渡河するという考え方に変形する。

三途川の渡し船の料金は六文と定められており、仏教様式の葬儀の際には六文銭を持たせるという習俗が以来ずっと続いている。現在では「」という貨幣単位がないことや火葬における副葬品制限が強まっていることから、紙に印刷した六文銭(冥銭)が使われることが多いようである。
懸衣翁・奪衣婆

三途川には十王の配下に位置づけられる懸衣翁奪衣婆という老夫婦の係員がおり、六文銭を持たない死者が来た場合に渡し賃のかわりに衣類を剥ぎ取ることになっていた。この2人の係員のうち奪衣婆は江戸時代末期に民衆信仰の対象となり、祀るための像や堂が造られたり、地獄絵の一部などに描かれたりした。
賽の河原積み石

三途川の河原は「賽の河原」(さいのかわら) と呼ばれる。賽の河原は、に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが賽の河原で、親の供養のために積石塚(cairn ケルン・ケアン)または石積みのを完成させると、供養になる。しかし完成する前にが来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうと言う。こうした俗信から「賽の河原」の語は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。しかしその子供たちは、最終的には地蔵菩薩によって救済されるとされる。ただし、いずれにしても民間信仰による俗信であり、仏教とは本来関係がない。

賽の河原は、京都鴨川桂川の合流する地点にある佐比の河原に由来し、地蔵の小仏や小石塔が立てられた庶民葬送が行われた場所を起源とする説もあるが、仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神である賽(さえ)の神が習合したものであるというのが通説である。

中世後期から民間に信じられるようになった。室町時代の『富士の人穴草子』などの御伽草子に記載されているのが最も初期のものであり、その後、「地蔵和讃」、「西院(さいの)河原地蔵和讃」などにより広く知られるようになった[4]

この伝承から、が多い湖畔や河原、海蝕洞内を含む海岸に、積み石や子供を救済するとされた地蔵菩薩像などが造られて「賽の河原」と呼ばれるようになった場所も、数カ所存在する。後述の恐山青森県)のほか、新潟県佐渡北部 (願地区)[5][6]島根県にある加賀の潜戸(くげど)などが有名である。
女性の渡河

10世紀中頃(平安中期)の日本の俗信として、「女性は死後、初めて性交をした相手に手を引かれて三途の川を渡る」というものがあった[7]。また、『蜻蛉日記』の作者は、三途の川を女が渡る時には、初の男が背負うて渡るといった意味のを詠んでいる[8]。こうしたことからも、平安時代の頃より三途の川信仰が多様に日本でアレンジされていたことが分かる。
比較神話学ラムセス6世王墓(KV9(英語版))より、死後の旅路の段階(ゲート)を説明した『門の書(英語版)』を描いたもので、原初の水ヌンを渡る様子が描かれている。
中国民族伝承
中国の伝承では、忘川や奈河と呼ばれる。その上には奈河橋(中国語版)という橋があり牛頭馬頭が守衛をしている。奈河橋のたもとには忘却の神孟婆がいて、霊魂から記憶を消去する薬湯、孟婆湯を薬草と忘川の水から作っている。日本の地獄のイメージは、中国の民間伝承の閻魔大王を含む地府十王、奪衣婆・懸衣翁のイメージと仏教が混じった形で地獄のイメージが形成された。
北欧神話
北欧神話における、冥界と現世にかかる川としてギョッルがある。
メソポタミア文明
メソポタミア文明で地獄に流れる川としてHubur(英語版)が挙げられる。ゾロアスター教では、善人と罪人を選別するチンワト橋を渡ることになる。
ギリシャ神話
ステュクスが三途川に類似した役割の川である。
インド、ヒンドゥー教の神話
死者は、死後にVaitarna River (mythological)(英語版)という川を見る。善人には蜜が流れる川で、悪人には血が流れる川に見える。閻魔(ヤマ神)の町の南門に流れる。善人はわたる必要はなく、罪人は肉食獣や炎によって渡ることが難しい。罪人で寄付や善行、信仰心がある者は、険しい道のりを超えた先で船で渡される。
エジプト神話
死後の楽園アアルにつくまでに長く困難な旅を行う。死後の世界ドゥアトについて記されている宗教書の中で、太陽(太陽神ラー、ラーの化身ファラオ)が沈んだ後に地の底を通り再生するまでの物語がある。この中で、地の最も深い場所で原初の神であり海であるヌンから力をもらい復活することが記されている。また、『門の書』『アムドゥアト』などの中で、ヌンの中に漂う死者が描かれている。また、ナイル川の東側(太陽が昇る方)は生きる者、西側(太陽が沈む方)は死者(来世)の世界とされた[9]


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