三越事件(みつこしじけん)とは、1982年(昭和57年)に発生した、老舗百貨店・三越に係わる一連の事件の総称である。
名門百貨店を舞台にした不祥事は、三越の社長解任劇に発展、世間を大いに賑わせた。目次 1972年(昭和47年)、三越社長に就任した岡田茂は自身に批判的な幹部を次々と左遷し、「岡田天皇」と呼ばれる独裁体制を確立させる。以降、岡田は不明瞭な経理によって会社を私物化していった。特に、岡田のライバルと目されていた常務の坂倉芳明を追放、坂倉は堤清二の誘いで西武百貨店の副社長に就任した(坂倉はのちに社長に就任、更にその後三越に復帰して社長に就任)。 岡田はジャーナリストの恩田貢から紹介された竹久みちを愛人として寵愛、竹久は岡田の庇護のもと三越内において発言力を強め、「三越の女帝」と呼ばれるようになる。 1982年(昭和57年)、週刊朝日が4月23日号で「三越・岡田社長と女帝の暗部」という記事を掲載。 同年6月17日、納入業者に対し三越の商品や日本映画『燃える秋』の映画前売券等の購入を要請(押し付け販売)、協賛金や社員派遣を要請、種々の催し物への費用負担の要請につき、三越は独占禁止法第19条の不公正な取引方法(優越的地位の濫用)に当たるとした審決を受ける(公正取引委員会昭和57年6月17日同意審決)。 なお大和運輸(現・ヤマトホールディングス)は、創業直後から三越の契約配送業者だったが、上述した映画前売券などの購入を強要された[1]ことに加えて配送料金の値上げを拒否されたことから、三越との配送契約を1979年(昭和54年)2月に解除した[1][2]。ヤマト運輸が三越との取引を再開するのはそれから31年後の2010年(平成22年)4月1日で[2]、三越と伊勢丹が経営統合して2008年に三越伊勢丹ホールディングスが発足した後のこととなる。 同年8月29日、三越日本橋本店で開催された「古代ペルシア秘宝展」の出展物の大半が贋作であることが、朝日新聞社の報道により判明した[注 1]。一部は既に億単位の値がついていたとされる[3]。 さらに、竹久の経営する「アクセサリーたけひさ」に不当な利益を与えていたり、自宅の改修費用に会社の資金を流用していたりした問題まで出てきた。 社外取締役であった三井銀行(現・三井住友銀行)相談役の小山五郎は、古代ペルシア秘宝展問題の引責を辞任理由とすれば、岡田にあまり傷がつかないとして岡田に辞任を勧告したが、岡田は喧嘩腰にこれを拒否した。以降、小山を始めとする三井グループ各社の幹部や三越内部の反岡田派は、岡田の社長追い落としを図り始めた。 同1982年(昭和57年)9月22日、取締役会で第5号議案までの審議が終わった後、岡田は腹心の杉田忠義専務に議長を交代した。配布資料で「その他」とのみ書かれていた第6号議案は、事前の打ち合わせでは岡田についての風説は事実に反することの確認とされており、それゆえの議長交代であった。しかし、杉田は岡田の社長職と代表権を解くことに賛同する者の起立を求め、それに応じて14人の取締役が起立した。 驚いた岡田は「何だこれは!」と叫んだが、理由を説明する義務はないと突っぱねられた。さらに岡田は「おかしいじゃねえか。議長は俺だ!」と食い下がるが、小山五郎社外取締役の提案により改めて発議された動議は16対0[注 2]で可決成立し、その場で岡田は非常勤取締役に降格となった[4]。 岡田はなおも「違法だ!」と怒鳴ったが、隣室に控えていた顧問弁護士が呼び出され、解任手続きに瑕疵がないとの旨を述べた[5]。この時に岡田が発したとされる言葉「なぜだ!」はこの年の流行語となった。岡田は小山から「岡田君、もう終わったのだよ」と声をかけられても「なぜだ……」と力なく呟き続けていたという。その後、役員陣は記者会見を開き、岡田茂の解任事態を公表した。 後任には、岡田によって左遷された名古屋三越社長の市原晃が就任した。 後日、岡田と竹久は19億円の特別背任罪の容疑で、東京地方検察庁特別捜査部に逮捕され同罪に問われた。 岡田には東京高等裁判所で懲役3年の実刑判決が下り、上告中の1995年(平成7年)7月20日に死去し公訴棄却。 竹久は最高裁まで争ったが懲役2年6月、罰金6000万円の実刑判決が確定し、栃木刑務所で1年6ヶ月服役。
1 事件概要
2 岡田解任
3 刑事訴追
4 関連作品
4.1 小説
4.2 ドラマ
4.3 映画
4.4 バラエティ番組
5 脚注
5.1 注釈
5.2 出典
6 外部リンク
事件概要
岡田解任
刑事訴追
Size:23 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef