三角寛
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1960年

三角 寛(みすみ かん、みすみ ひろし、1903年(明治36年)7月2日 - 1971年(昭和46年)11月8日)は、小説家、山窩(サンカ)作家、映画館経営者。本名は三浦守。僧名は釈法幢。
略歴

大分県直入郡岡本村大字枝字真米(現・竹田市大字枝字真米)[1]に農家の4人姉弟の末子として生まれる。私生児であった[2]。幼少期に父親と死別し、10歳で豊後大野市大野町田中の真宗系の最乗寺に預けられる。1922年春、19歳で地元から出奔。日本大学法科卒業と自称していたが、筒井功はこれを疑問視し「三角の最終学歴は、小学校卒であった可能性が強い」[3]と述べている。

1926年(大正15年)3月、記者の手伝いをする雇員(非正規採用)待遇で朝日新聞社に入社し[4]、サツ回り担当(取材記者)となる。説教強盗の報道で話題となる[5]。このとき、取材先の刑事から「犯人は足が速いからサンカかもしれない」という言葉を聞き、サンカに興味を持つ[6][7]。記者時代は派手な飛ばし記事で人気を博す一方、上司から警戒もされていた[8]

永井龍男の勧めで小説を書き始め、『婦人サロン』に「昭和毒婦伝」を連載し文壇にデビュー。毒婦伝でサンカを題材にしはじめる[9]。山窩小説三部作と言われる『怪奇の山窩』『情炎の山窩』『純情の山窩』を発表し、流行作家の道を歩む。小説家として多忙になったため朝日新聞社は1933年に退社[10]

1935年ごろ、PL教団の前身である新興宗教「ひとのみち」に入信し、「ひとのみち」を批判した大宅壮一の自宅に抗議におしかけた[11]

また1942年(昭和17年)に皇国薬草研究所を創立して所長に就き、サンカに伝わる薬草を軍に売る。

戦後は娯楽が儲かると判断して映写機を手に入れ、吉川英治徳川夢声井伏鱒二らを株主とする映画館「人世坐」「文芸坐」の経営にあたる。1962年(昭和37年)に学位論文「山窩族の社会の研究」で東洋大学から文学博士学位を取得する[12]。晩年には埼玉県の桂木寺の住職を務めた。

1958年におきた「警察官職務執行法」改正に対する国民的反対運動において、日本文芸家協会は、改正案反対の声明書を発表したが、三角は同会会員で唯一、協会の行動に反対し、「これらの行動が、日本の作家の全部の意志と見られることは迷惑千万だ」という談話を新聞に発表した[13]

『三角寛全集』全35巻・別巻1巻を母念寺出版より刊行中に心筋梗塞のため死去し、未完に終わっている。戒名は至心院釈法幢法師[14]

現代書館から『三角寛サンカ選集』全7巻が刊行されている。

朝日新聞入社以前の履歴にはさまざまな疑問が呈されている。当人は、日本大学法科卒業と自称していた[15]
サンカ研究

三角による山窩(サンカ)に関する研究は、現在でも多くの研究者が資料とするところであるが、実は彼の創作である部分がほとんどであり、小説家としての評価は別として、学問的価値は低い。これはその後、多くの研究者により虚偽であることが証明された[16]。よって、三角によるサンカ資料は、三角自身による創作小説と見るのが適当である。

三角は当時、自分以外の者がサンカについて言及・研究すると激しく抗議し、サンカ研究を独占していた[17]
家族

妻は三角よしい。長女の寛子は舞踏家の林寛枝。婿養子(寛子の夫)は映画評論家の三浦大四郎。孫に日本舞踊家の林千永。曾孫に歌舞伎俳優二代目市川青虎
著書

『縛られた女たち』大日本雄辯會講談社 (1939/08)

『慈悲心鳥―山窩史話』日京書院 (1948)


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