三菱一号館
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、三菱一号館の建物について説明しています。建物内にある美術館については「三菱一号館美術館」をご覧ください。

三菱一号館(みつびしいちごうかん)は、1894年明治27年)、東京市麹町区八重洲一丁目(現在の東京都千代田区丸の内内)に建設された洋風事務所建築で、煉瓦造の建物内に銀行や商社、郵便局が入居していた[1]1968年昭和43年)老朽化のため三菱地所が解体したが、2009年平成21年)同社により美術館として復元された。
名称の変遷

旧建物(貸事務所)の竣工時の呼称は第1号館であったが、「三菱」をつけて三菱第1号館、三菱1号館とも呼ばれた。1918年に東9号館と改称された後は、「三菱」をつけて三菱東9号館、三菱旧1号館とも呼ばれた。一方、2009年に建てられた現建物(美術館)の呼称は三菱1号館である。
三菱1号館(1894年 - 1968年)

三菱1号館

情報
旧名称第1号館
旧用途事務所・銀行
設計者ジョサイア・コンドル曽禰達蔵
施工直営工事
建築主三菱合資会社
事業主体三菱地所
構造形式煉瓦組積造(イギリス積)
延床面積5,044 m² [2]
階数地上3階、地下1階
高さ軒高50尺(約15メートル)
エレベーター数なし
着工1892年(明治25年)1月
竣工1894年(明治27年)6月30日
改築1968年(昭和43年)3月23日解体
所在地100-0005
東京都千代田区丸の内二丁目6番2号
テンプレートを表示

建築概要

三菱が丸の内に建設した最初の洋風貸事務所建築である。明治政府の建築顧問であったジョサイア・コンドルによりイギリス・クイーンアン様式(en)の煉瓦造の建築として設計された。コンドルは1891年の濃尾地震の被害を視察しており、耐震性を考慮した設計を施している。具体的には、杭基礎とコンクリート布基礎を組み合わせた基礎構造、鉄骨梁と波形鉄板にコンクリートを打った構造、帯鉄で補強した煉瓦壁などである[3]

建設は曽禰達蔵現場主任があたり、直営工事による施工がなされた。1894年当時、洋風事務所建築は横浜神戸外国人居留地などにも建てられたが2階建の小規模のものが多く、本建物は異例の大型建築だった。その後、鉄筋コンクリート造りが主流となり、事務所建築は収益性の向上を求めて更に大型化した。

平面計画では玄関・階段・便所などを共用とせずテナントごとにこれをおく棟割長屋間取りを持つことを特徴とした。このような間取りが採用された理由としては、事務所といえど建物を自分だけで占有にしたいという当時の入居者の価値観があったとされる[4]

竣工当初においては、三菱合資会社本社、第百十九国立銀行(後の三菱合資会社銀行部、三菱銀行)本店、高田商会が設けられたほか、貸事務所として坪1円から1円50銭で貸し出されたとされる[5]。このほか、郵便局「丸ノ内郵便電信局」が1902年(明治35年)11月より三菱合資会社の無償提供で本建物内一室に設けられていた[6]

建物名について、三菱村の建物は当初、建てられた順に「第1号館」「第2号館」などと館名がつけられていた(日本で建物を第(数字)号館などと称したのはこれが嚆矢である)。しかし、建物が増えるにつれ、これら館名と地番だけでは不便になったため、三菱合資会社では1918年(大正7年)3月より「地画制」を実施することとし、同社により丸の内東通りと命名された通りに面した本建物は「東9号館」と改称された[6]

1894年(明治27年)ごろの「第1号館」の銀行営業室

「第1号館」の銀行営業室における執務風景

1909年(明治42年)ごろの「一丁倫敦」風景 一番手前右は「第1号館」

沿革
建設の経緯

丸の内の土地が三菱に払い下げられた後、三菱の建築部門として「丸ノ内建築所」が設けられ(設けられた年月について『丸の内百年のあゆみ:三菱地所社史』によれば、明治23年9月ごろではないかとしながらも正確な年月は不明だとしている)、後の丸ノ内八重洲ビルヂングが建つ敷地に事務所を構えた[7]

そうして1892年(明治25年)1月に着工、約2年半後の1894年(明治27年)6月30日に竣工し、同日付で三菱が麹町区区長宛に「家屋新築落成届」を提出した[7]。なお、竣工年月日については、1894年(明治27年)12月31日とする文献(1968年5月の建築雑誌[5]など)もある[7]

1906年(明治39年)3月には隣接の敷地に煉瓦造の人力車置場が建てられ、後に「東9号館西寄別館」となった[8]。さらに1910年(明治43年)8月には鉄骨煉瓦造の三菱本社食堂が建てられ、これは後に「東9号館東寄別館」となった[8]
解体の経緯と前史

「第1号館」の竣工を契機として、丸の内には軒高と意匠の整えられた煉瓦造の建物が続々と立ち並び、1900年代末期には一丁倫敦と称される街並みを形成するまでに至った。

しかし、耐震性に難のある煉瓦建築は関東大震災で甚大な被害を被り、耐震性や土地の利用効率に優れる明治生命館などの合理的なアメリカ式オフィスビルへの建て替えが進んだ。

第二次世界大戦で日本が敗戦したのちの1946年(昭和21年)4月には東寄別館を占領軍が接収し、1956年(昭和31年)2月解かれるまで隣接するもと丸ノ内八重洲ビルヂングにして八重洲ホテルの従業員宿舎として供された[9]

高度経済成長1959年(昭和34年)にスタートした三菱地所による再開発事業「丸ノ内総合改造計画」により、赤煉瓦街は急速に姿を消していった[4]

1960年代後半になると、「東9号館」(当時の通称は三菱旧1号館)は一丁倫敦の面影を残す数少ない建物となっていた。特に同館は東京の近代的都市計画の出発点、初期の近代的事務所建築として歴史的価値があり、当初の形をよく保存した明治時代の洋風建築として文化的価値も高く、研究者の間では日本銀行本店、旧赤坂離宮(迎賓館)と並ぶ「明治の三大建築物」に挙げられていた[5]

明治時代の優れた建築物などを文化財に指定することを要望する旨、日本建築学会が1960年(昭和35年)10月24日付で文部大臣及び文化財保護委員会委員長代理宛てに提出した「明治建築の保存に関する建議書」[10]においても、本建物は文中に例としてあげられていた。

一方、同館を所有する三菱地所では、オフィス需要の急伸に伴い同館を含む区画の立て替えが検討されていた。そのため同社は上述の東西別館を1967年(昭和42年)4月それぞれ取り壊して用地にあてることとした[11]
重要文化財指定の申し入れと抜き打ちの取壊し

1967年(昭和42年)9月に文部省文化財保護委員会は三菱地所に対し文化財指定の申し入れを行い、三菱地所は無断で取り壊すことはしない旨を示したため、文化財指定は見送られた[5]。しかしその後、文化財保護委員会は文化財保護法の強制指定の適応を検討していたが、三菱地所は1968年(昭和43年)3月21日に解体工事を開始する旨、一方的に文化財保護委員会宛てに通告した後、突如その翌日の同年3月22日夜間に足場を架設し、丸の内地区の人通りが少なくなる土曜日の同年3月23日を選んで解体工事を強行した[5]

この三菱地所が解体工事を強行した理由について、2010年1月号の「建築雑誌」によれば、三菱地所のある役員は、1968年当時の三菱地所で解体工事を発注する立場にあった社長より、丸の内の企業とその連結企業の売り上げは日本のGDPの20パーセント程度であり、企業活動の場を多く提供することが丸の内の使命であったことから、また、現在のような都市計画上の支援制度などもなかったため「東9号館」を解体することになったなどと説明を受けた、としている[12]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:47 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef