三英傑(さんえいけつ)、もしくは郷土三英傑・戦国三英傑[1]は、現在の愛知県(当時は尾張国と三河国)出身で名古屋にゆかりがあり、日本の戦国時代において天下を統一へ導いた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人の戦国大名について、主に後世(#成立を参照)において中部地方や愛知県で顕彰する呼称。口語では戦国の三傑が用いられる。名古屋まつりでは毎年、この3人にちなんで郷土英傑行列が行われている。@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important}三英傑 江戸時代までは尾張と三河を一体とみる考え方は無く、また江戸時代に「神君」だった家康と他の二者を一緒くたに語るのは困難であり、成立は明治時代まで下る[2]。ただし、嘉永5年(1852年)小田切春江著『尾張英傑画伝』では、三英傑に加え源頼朝と足利尊氏を「草創五君」とし[注 1]、信長・秀吉及びその麾下の武将たちを含めて「日本の英雄」の多くが尾張から出たと記し、三英傑のイメージの一部を提供したのが読み取れる。三英傑を取り上げた最初の書物は、明治12年(1879年)成立の水谷民彦『三傑年譜』全30巻とみられる。ただし、水谷はあくまで尊王の観点から3人を取り上げており、『三傑年譜』も写本でしか伝わっていないことから影響力も少なかったとみられる。次いで注目すべきは、在京愛知県出身者によって編集された雑誌『愛知学芸雑誌』創刊号に、地理学者・志賀重昂がよせた論考である。志賀はここで愛知の地理的一体性を強調し、その地理的環境が幾多の英雄を生み出したが、その代表的存在が三英傑であり、彼らを顧みることで県民の奮起を促している。一方言論だけでなく、清須・中村・岡崎における史蹟公園の整備というかたちで県民の教化が進められている。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}昭和11年(1936年)には名古屋の財界人・文化人たちが「三傑会」を結成し、東京と大阪に経済的・文化的に対抗する意味が込められた[要出典]。翌年の名古屋汎太平洋平和博覧会の会場に設けられた「歴史館」では、入口には三英傑の等身大木造が置かれ、建勲神社・豊国神社・東照宮が分祠され、ジオラマによって三英傑の活躍が再現された[要出典]。更に博覧会に合わせて「三傑節」が作られ、日本ポリドール社からレコードも販売された[要出典]。 こうして戦前までに、信長・秀吉・家康を並列的に「郷土の英傑」として讃える見方は定着する。昭和30年(1955年)には名古屋まつりに「郷土英雄行列」が登場し、現在も続いている(後述)。 「三英傑」という言葉は、東海三県では通じるが、西側は岐阜県と滋賀県の県界線、東側は静岡県の掛川市あたりまでしか通じにくい[3]。 当時三英傑という呼称は無かったものの、天下人の座を受け継いだ三人を一まとめにする考え方は江戸時代から存在した。天保 - 嘉永期に「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川」という狂歌が流布され[4]、歌川芳虎によって錦絵も描かれた[5]。ただしこの絵には明智光秀も含まれている[6]。「道化武者 御代の若餅」 画中に「君が代を つきかためたり 春のもち」の句を記す。歌川芳虎画。 三英傑の性格を、鳴かないホトトギスをどうするかという題材で後世の人が言い表している(それぞれ本人が実際に詠んだ句ではない)。これらの川柳は江戸時代後期の平戸藩主・松浦清の随筆『甲子夜話』に見える(q:時鳥#川柳 以下に引用とその解釈を記す。 2019年現在で 6人いる。以下に三英傑を全て演じた年代順に並べた。複数作品で同一の英傑を演じている場合は最初の一作のみを記す。太字は主演作である。
織田信長(1534年 - 1582年)
豊臣秀吉(1537年 - 1598年)
徳川家康(1543年 - 1616年)
成立
天下餅
ホトトギスの喩え
「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」(織田信長)
この句は、織田信長の短気さと気難しさを表現している。
「鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤」(豊臣秀吉)
この句は、豊臣秀吉の好奇心旺盛なひとたらしぶりを表現している。
「なかぬなら鳴まで待よ郭公 大權現様」(徳川家康)
この句は、徳川家康の忍耐強さを表している。
三英傑を全て演じた人物
實川延一郎1924年 - 映画『鬼作左衛門の娘』(家康役)1926年 - 映画『地獄に落ちた光秀』(信長役)1931年 - 映画『怪盗石川五右衛門』(秀吉役)[7]?
津川雅彦1964年 - NET/連続テレビドラマ『徳川家康』(信長役)[8]1987年 - NHK/大河ドラマ『独眼竜政宗』(家康役)[9]1993年 - テレビ朝日/新春5時間時代劇スペシャル『独眼竜の野望 伊達政宗』(秀吉役)
松方弘樹1987年 - TBS/大型時代劇スペシャル『太閤記』(信長役)1988年 - TBS/大型時代劇スペシャル『徳川家康』(家康役)1995年 - TBS/大型時代劇スペシャル『愛と野望の独眼竜 伊達政宗』(秀吉役)
中村橋之助(3代目)[10]1988年 - NHK/大河ドラマ『武田信玄』(家康役)2006年 - テレビ朝日/火曜時代劇『太閤記?天下を獲った男・秀吉』(秀吉役)2009年 - 映画『GOEMON』(信長役)
竹中直人1995年 - テレビ東京/新春ワイド時代劇『豊臣秀吉 天下を獲る!』(家康役)1996年 - NHK/大河ドラマ『秀吉』(秀吉役)2014年 - NHK/大河ドラマ『軍師官兵衛』(秀吉役)2016年 - NHK BSプレミアム/プレミアムよるドラマ『最後のレストラン』[11](信長役)2020年 - ゲーム『仁王2』(秀吉役)
Size:26 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef