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三船殉難事件(さんせんじゅんなんじけん)は、第二次世界大戦終戦後の1945年(昭和20年)8月22日、北海道留萌沖の海上で樺太からの疎開者を主体とする日本の緊急疎開船3隻(小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸)がソ連軍の潜水艦(L-12号・L-19号)からの攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没して1,708名以上が犠牲となった事件を指す[1]。三船遭難事件とも呼ばれる[2][3]。
樺太からの疎開詳細は「樺太の戦い (1945年)」を参照
ソ連は8月8日深夜、対日宣戦布告し、満洲、朝鮮、南樺太に侵攻した[4]。1945年(昭和20年)8月15日に、大日本帝国政府はポツダム宣言を受諾し、降伏文書への調印意思を連合国へ通達、翌日には各軍への停戦命令の布告および武装解除を進めさせた。これに対応し、イギリス軍やアメリカ軍は即座に戦闘行為を停止した。
ところが、北海道札幌の第5方面軍司令官の樋口季一郎中将は北海道へのソ連進駐とそれによる赤化を恐れ、北海道占領を阻む防波堤とすべく樺太の第88師団に当時日本領であった南樺太を死守するよう命じた。また、南樺太西岸の北方の町である恵須取ではそれ以前の艦砲射撃に反撃がなかったため日本兵がいないものと判断したのか、ソ連軍兵士らが特段の攻撃姿勢もなく上陸してきた。日本軍守備隊はこれを攻撃し交戦状態に突入、この結果、ソ連軍は南樺太各地への空爆や上陸のための攻撃を開始し、南樺太では日本・ソ連両軍の交戦が続くこととなった。[5]
大津敏男樺太庁長官は、ソ連軍の攻撃から避難させるため、長官命令で老人・児童及び女性を本土に送還するため、大泊港から宗谷丸、小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸等の船に分乗させ本土に疎開させようとした[6]。(なお、南樺太では、これら戦力にならないと見られる高齢・幼少の者を除き、女性・学徒を含めた全住民を動員して、全員玉砕まで遊撃戦を行わせる計画がもともと存在していた可能性が高い[5]。)
最初の疎開船は13日夕に出港した宗谷丸で、警官や憲兵に案内され、いち早く乗ったのは樺太庁職員や警官家族、師団将校の妻らで、彼らは大量の荷物を抱え、なかには家財道具まで積込み(疎開者が持ち帰る荷物は、本来、一人一個、一家族三個、一個約八貫目までと定められていた[7]。)、定員790人に対し、わずか680人余で出航したという。このことは後日判明し非難の声があがったが、樺太師団の鈴木参謀長は、彼ら官・軍関係者への疎開情報連絡のみが先にされたかのではないかという点には触れることなく、「これらの家族は一般住民に比べて係累や荷物が少なく、移動になれていて、手回しがよく指令を守ったため、第一陣に間に合った」と弁明している[7]。 1945年(昭和20年)8月20日、疎開船の1隻である逓信省の海底ケーブル敷設船小笠原丸(1,456トン)が疎開者1,500名ほどを乗せて大泊から稚内に渡った。 通信という職務の性格上、樺太には多くの逓信省関係者が残っていたため、逓信省の職員・家族の引揚げのため、豊原逓信局長からの依頼で回航されたともいうが、多数の疎開者が押しかけて乗込み、その一方で逓信省の関係者らは「逓信省の船だから逓信省の人間を乗せるべきだ」と騒いだという。また逆に、逓信省の海底線事務所長は船が疎開に携わっていると知り、ソ連に船を拿捕されて失うのを怖れ、疎開を中止し、横浜に回航するよう打電していたという[7]。 海軍警備兵も乗組み、砲や機銃で武装されていたが、終戦とのことで覆いをかけていたという[8]。南樺太では、第5方面軍の樺太死守命令により戦闘が続いていて、それは乗員・乗客らも知っていたはずで、それとやや矛盾する感じもするが、それまで日本海はむしろ米潜水艦が活動し、ソ連軍がよもやここまで来るとは思わなかったとする証言等もある。連合軍からの指示で、攻撃されないための一定の無線信号を出し、マストに航海灯を掲げていた[9]。 一般の疎開者は稚内までと決めたため、日本に到着した事や機雷の危険がある事から下船するよう勧めがあったが、そのまま乗っていれば小樽まで行けるため、降りようとしない者も多く、約600名の乗客と約100名の船員・軍人を乗せて小樽に向った。稚内までの列車の本数は少なく、それを嫌ったともいわれる。その途中の8月22日午前4時20分頃、増毛沖の海上でソ連潜水艦L-12と思われる艦船の雷撃により撃沈された[10]。 沈没の様子は留萌防空監視哨からも望遠鏡で目撃されたという。ソ連軍潜水艦は小笠原丸沈没後、浮上して、波間に漂う人々に機銃掃射を加えたともいう。助かった遭難者は、船の破片や積まれていた救命筏につかまって漂流した。増毛町役場には別苅防空監視哨から「小笠原丸の避難民」が「小笠原のシナ人」として連絡が入ったという。町長らが20人ほどの職員を連れて現場近くの海岸に到着したときには既に多数の遺体が漂着し、生存者の救助活動も始まっていたが、その前には、沖合から救助を求める遭難者の声が枯れていたのか聞き取れず、日本語でないようだとして「シナ人だろう」「こちらへ来るな」と怒鳴って、沖合い遠方に追い払おうとしていたとの話も伝わる。[11] また、救命ボートで海岸に漂着した乗組員が漁民に救助を要請したが、油がないからとなかなか船を出してもらえず、乗組員が東京に頼んで後で油を融通してもらうからと頼んでようやく船を出してもらったという[12]。一方で、後の事になるが、遺体収容のために自費で船の引揚作業やそれに協力する地元住民もいた[11]。1951年(昭和26年)、増毛町の雑貨商村上高徳の呼びかけから、約2年かけて海底から遺骨収集が行われる[13]。沈没した小笠原丸の近くに別の潜水艦らしき艦船が沈んでいるのが発見されたとされるが、こちらについては本当に潜水艦であった場合、魚雷が残っていれば危険という事でそのままにしておかれた[9]。 乗員乗客638名が死亡し、生存者は61名だった[14]。なお、生存者は62人とされることもある[15]。のちに大相撲で横綱となった大鵬は、この小笠原丸に乗船していたが途中の稚内で下船し難を逃れている。 続いて午前5時13分頃、大泊からの疎開者約3,400名を乗せ小樽へ向っていた特設砲艦第二号新興丸(2,700トン)が留萌沖北西33キロの海上で、ソ連の潜水艦L-19からの魚雷を右舷船倉に受け縦約5m・横約10mの穴が開いた[10]。さらにこの直後に浮上した潜水艦により銃撃や砲撃を受けたため、これに応戦した。同艦は1941年(昭和16年)に海軍に徴用され特設砲艦として宗谷海峡付近で機雷敷設の任務に就いていた艦であるため、12センチ砲2門と25mm対空機銃の装備があった。なお、二隻ないし三隻の潜水艦が浮上してきて攻撃されたという証言も多い[7]。乗員・乗客らの証言によれば、新興丸も、2門の砲で各1発だけ撃ったとも、なかなかあたらず何発も撃ったともいうが、激しく応戦し、新興丸の砲撃が敵潜水艦の一隻に当たって確かに撃沈したように乗船者らには見えたという。一方で、この砲撃戦は近くの鬼鹿の監視哨からも見えたが、そこからの目撃者の話では当たったのかどうかは、はっきりしない[9]。
小笠原丸沈没
第二号新興丸大破