三船敏郎
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みふね としろう
三船 敏郎
1954年
本名三船 敏郎[注釈 1]
生年月日 (1920-04-01) 1920年4月1日
没年月日 (1997-12-24) 1997年12月24日(77歳没)
出生地 日本膠州湾租借地(現・中国山東省青島市
死没地 日本東京都三鷹市[2]
国籍 日本
身長175 cm
血液型O型
職業俳優映画プロデューサー映画監督
ジャンル映画テレビドラマ
活動期間1947年 - 1997年
配偶者吉峰幸子(1950年 - 1995年
著名な家族三船史郎(長男)
三船力也(孫)
三船美佳(非嫡出子)
主な作品
日本映画
銀嶺の果て』/『醉いどれ天使
野良犬』/『羅生門
七人の侍』/『宮本武蔵
蜘蛛巣城』/『無法松の一生
隠し砦の三悪人』/『日本誕生
悪い奴ほどよく眠る』/『用心棒
天国と地獄』/『赤ひげ
太平洋奇跡の作戦 キスカ
日本のいちばん長い日』/『黒部の太陽
連合艦隊司令長官 山本五十六
日本海大海戦』/『上意討ち 拝領妻始末
風林火山』/『新選組
待ち伏せ』/『制覇
男はつらいよ 知床慕情
千利休 本覺坊遺文』海外映画※日本との合作含む
価値ある男』/『太平洋の地獄
レッド・サン』/『ミッドウェイ
1941』/『武士道ブレード』テレビドラマ
大忠臣蔵』/『荒野の素浪人
荒野の用心棒』/『将軍 SH?GUN

 受賞
ヴェネツィア国際映画祭
男優賞
1961年用心棒
1965年赤ひげ
日本アカデミー賞
優秀助演男優賞
1988年男はつらいよ 知床慕情
会長特別賞
1995年1998年
ブルーリボン賞
主演男優賞
1951年『馬喰一代』
1961年『用心棒』『価値ある男
1965年『赤ひげ』
助演男優賞
1987年『男はつらいよ 知床慕情』
特別賞
1961年・1966年
その他の賞
毎日映画コンクール
主演男優賞
1957年『蜘蛛巣城』『下町』『どん底
男優助演賞
1987年『男はつらいよ 知床慕情』
特別賞
1997年キネマ旬報ベスト・テン
主演男優賞
1962年『用心棒』『大坂城物語
1969年黒部の太陽』『祇園祭』『連合艦隊司令長官 山本五十六

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三船 敏郎(みふね としろう、1920年大正9年〉4月1日 - 1997年平成9年〉12月24日)は、日本俳優映画監督映画プロデューサー。本名は同じ[注釈 1]第二次世界大戦後の日本映画を代表する名優のひとりで、黒澤明監督作品への出演で知られる[3]。国際的にも知名度が高く、1960年代以降は日本国外の映画にも出演した。1961年1965年にはヴェネツィア国際映画祭男優賞を受賞した。
来歴
誕生から終戦まで1921年。満1歳のときの写真

1920年4月1日木曜日)、中国山東省青島に、父・徳造と母・センの長男として生まれた[4]。三船が生まれた翌年に次男の芳郎、4年後に長女の君子が生まれた[5]。徳造は秋田県由利郡川内村小川(現在の由利本荘市鳥海町小川)の漢方医の息子で、満州に渡って貿易商や写真師となり、青島と営口で三船写真館を経営していた[5][6]。母は新潟県旗本だった家柄の生まれである[4]1925年に家族は日本の租借地だった大連に移住したが、市内で転居が続き、それに伴い伏見小学校、聖徳小学校、朝日小学校と転校した[5]1934年に三船は大連中学校に入学したが、徳造が病気で入院することが多くなると、彼が経営するスター写真館(1929年に満州の連鎖商店街で開業[7])の仕事を手伝うようになった[8]。父の目が届かなくなったことで、三船は盛り場で遊んで朝帰りをしたり、映画をたくさん見たりするなど、やりたい放題な生活を送った[8][9]1939年、大連で撮影

大連中学校を卒業した三船は、1940年徴兵検査で甲種合格となり、陸軍に応召された[7]。三船は広島宇品港に招集され、初めて日本の土を踏んだが、すぐに貨物船に乗って満州に逆戻りし、公主嶺にある陸軍第七航空教育隊に入隊した[7][9]。三船はさまざまな軍事訓練を受けたが、「鬼も泣く関東軍」と呼ばれた航空教育隊での上官のしごきは凄まじく、何かにつけて殴られ、声がデカイというだけで殴られることもあった[10]。同隊で三船は写真の経験と知識があることから、写真部に配属された[11]1943年

1941年、三船は牡丹江の第八航空教育隊に転属となったが、すでに引き揚げ準備が進行していたため日本に戻り、滋賀県八日市飛行場に写真工手として配属された[9][12]。三船は偵察機赤外線カメラで撮影した航空写真を組み合わせ、敵地の地図を作成するという仕事に従事し、戦地に赴くことはなかった[10][12]。しかし、三船は上官に対して反抗的な態度を取っていたため、終戦まで上等兵のまま過ごした[10]。三船は炊事場の責任者でもあり、よく仲間のために料理を作って酒盛りを始め、酔うと必ずバートン・クレーンの「酒が飲みたい」を唄った[13][14]。後輩兵だった鷺巣富雄(うしおそうじ)によると、古参兵の三船は初年兵をよくかばったりするなど面倒見がよく、少年兵がいじめられているのも見過ごせず、上官が相手でも「お互い階級章を外して、人間対人間で行こう」と喧嘩腰になったこともあったという[14][15]

1945年、三船は熊本県上益城郡(現在の熊本市南区城南町隈庄)の小さな特攻隊基地である隈庄飛行場の飛行第百十戦隊に配属された[7]。そこで沖縄の特攻作戦に向かう少年航空兵たちを教育し、彼らが出陣する前に遺影を撮影した[7][12]。三船は料理の事務もしていたため、翌日に出撃する少年兵のために、なけなしの食糧からすき焼きを作って食べさせたり、酒を飲ませたり、ヒロポンを打って興奮状態にさせたりして送り出した[16]。少年兵が飛び立つ時には、「『天皇陛下万歳!』なんて言うな。恥ずかしくないから『お母ちゃん!』と叫べ」と言ったという[17]。やがて沖縄の特攻隊基地が手薄になり、同地に派遣されることが決まったが、その矢先に8月15日の終戦を迎えた[12]。それまでに両親は亡くなり、弟の芳郎も招集されたため行方が分からず、妹の君子も安否不明だった。それ以外の親戚もおらず、大連の写真館も爆撃で焼け落ちていたため、三船には帰る場所と迎えてくれる家族がいなかった[12][18]
東宝ニューフェイス

終戦で除隊した三船は、軍隊から二枚の毛布を貰い、汽車に乗って原隊の滋賀県まで向かった[16]。しばらく琵琶湖辺りで遊んでいたが、東京出身の初年兵に誘われて田園調布に居着いたあと、兵隊仲間と横浜磯子で生活し、芳郎や君子と再会した[16][19]。その後、芳郎は明治大学に進学したあと自衛隊に入隊し、君子はハワイに住む日系人と結婚した[20]。三船は横浜で進駐軍が飲むコカ・コーラの原液が入ったドラム缶を運ぶ肉体労働に従事していたが、それだけでは将来が不安なため、東宝撮影所撮影部に所属する大山年治を訪ねた[16]


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