三篠町
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、広島県安佐郡の自治体について説明しています。広島市西区の町名については「三篠町 (広島市)」をご覧ください。

みささちょう
三篠町
廃止日1929年4月1日
廃止理由編入合併
三篠町、己斐町草津町古田村牛田村矢賀村仁保村 → 広島市
現在の自治体広島市
廃止時点のデータ
日本
地方中国地方山陽地方
都道府県広島県
安佐郡
市町村コードなし(導入前に廃止)
面積6.493 km2.
総人口15,170人
(1925年)
隣接自治体広島市・己斐町長束村牛田村
三篠町役場
所在地広島県安佐郡三篠町大字楠木(現・三篠町一丁目)
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度24分43秒 東経132度26分59秒 / 北緯34.41181度 東経132.44969度 / 34.41181; 132.44969座標: 北緯34度24分43秒 東経132度26分59秒 / 北緯34.41181度 東経132.44969度 / 34.41181; 132.44969
ウィキプロジェクト
テンプレートを表示

三篠町(みささちょう)は、かつて広島県安佐郡に存在したである。1889年(明治22年)の町村制発足時には「三篠村」として設置されたが、1907年(明治40年)に町制を施行して三篠町となり、1929年(昭和4年)4月1日広島市編入合併して消滅した。
地理

自治体としての「安佐郡三篠町」は現在の
西区三篠町よりはるかに広い地域を包括していた。

旧町域は広島市デルタの北側に位置し、太田川(現在の旧太田川に相当)と旧山手川に挟まれた地域と山手川右岸の地区に加え、天満川と旧福島川に挟まれたデルタおよび旧福島川と旧山手川に挟まれたデルタの北側の地区も含む。ただし編入合併後の太田川改修事業により地形は大きく変化しており( ⇒[1]参照)、現在の町名でいえば太田川(放水路)左岸(天満川と挟まれたデルタ)では北は大芝町・大宮町から南は中広町・小河内町まで、右岸では新庄町から山手町に至るまでの地域がかつての三篠町域である。

太田川を挟んで東と南は安芸郡牛田村(現在の東区牛田)および広島市、西は佐伯郡己斐町(現在の西区)、北は安佐郡長束村(のちの同郡祇園町、現在の安佐南区長束)に隣接していた。

町役場は大字楠木に設置された。

歴史
地名の由来

町名となっている「三篠」は太田川の別名「御篠川」(みささがわ)に由来する。「御篠川」は太田川とその支流・分流が笹の葉を重ねた形に似ていることから名付けられた。
江戸時代の新庄・楠木・打越各村

江戸時代、のちに「安佐郡三篠町」となる地域は新庄・楠木・打越の3村に分かれており、いずれも沼田郡に属した。これらの村は藩政時代の太田川治水工事により新田として開発された地域であり、蔬菜の他にはの産地として知られていた。楠木村に属する横川は雲石街道国道54号の旧道)から広島城下への入り口という交通の要所であり早くから市街地が形成されていた。
三篠村から三篠町へ

明治時代に入っても上記3村はしばらく持続したが、1889年明治22年)の町村制施行により統合され、「沼田郡三篠村」が新たに発足、村役場は大字楠木に設置された(のち沼田郡と高宮郡の統合にともない安佐郡三篠村に変更した)。1897年(明治30年)、山陽鉄道(現JR山陽本線)が徳山まで開通すると、村内には広島駅の西隣の駅として横川駅が開業し、旧雲石街道には商店街が形成された(1903年には日本最初の乗合バスが横川 - 可部間に開業したが同年中に廃止された)。そして1907年(明治40年)には町制が施行されて「安佐郡三篠町」と改称、さらに1910年(明治43年)には大日本軌道の横川 - 祇園間の路線(現在のJR可部線)が開通した。このころから川舟による太田川水運に代わって、鉄道が海運に接続する物資運搬を担うようになっていった。
広島市への編入合併

町の主要産業であった藍作は第一次世界大戦頃から次第に衰退に向かい、楠木では製針・製材・家具・ゴム工業が発達して工業地帯を形成、新庄・打越は稲作・蔬菜栽培を中心とする農村地帯となった。また1917年大正6年)には、市電(現在の広島電鉄横川線)が左官町(現在の中区本川町)から横川まで開通、横川は同年浜田方面への郊外バスの発着場となるなど県内陸交通の一大拠点となり広島の北の玄関口としての地位を固めた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:29 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef