三笠_(戦艦)
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三笠
佐世保に入港した「三笠」
(1905年2月18日もしくは19日撮影)
基本情報
建造所ヴィッカース・サンズ[1]
バロー=イン=ファーネス造船所(イギリス[2]
運用者 大日本帝国海軍
艦種戦艦
級名敷島型(四番艦)
艦歴
計画第二期拡張計画[3]
発注1898年9月26日
起工1899年1月24日[1]
進水1900年11月8日[1]
竣工1902年3月1日[1]
除籍1923年9月20日
現況記念艦として保存
要目
排水量15,140トン(常備)
全長131.7m
最大幅23.2m
吃水8.3m
機関15,000馬力
速力18ノット
航続距離10ノットで7,000海里(約13,000km)
乗員860名
兵装主砲 40口径30.5センチ連装砲2基4門
副砲 40口径15.2センチ単装砲14門
水雷艇40口径7.6センチ単装砲20門
47ミリ単装砲16基
魚雷発射管 45センチ発射管4門
装甲KC装甲鋼板(クルップ鋼
舷側:9in(228.6mm)-4in(101.6mm)KC鋼[4]
甲板:3in(76.2mm)-2in(50.8mm)[4]
砲塔:14in(355.6mm)-8in(203.2mm)[4]
砲郭:6in(152.4mm)-2in(50.8mm)[4]
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三笠(みかさ)は、大日本帝国海軍戦艦日露戦争日本海海戦連合艦隊旗艦を務めた[5]

神奈川県横須賀市に静態保存されており、世界三大記念艦の一つとされている[注釈 1]
概要

軍艦「三笠(みかさ)」は、敷島型戦艦の四番艦。イギリスヴィッカース社で建造され、1902年明治35年)3月に竣工[7]奈良県にある三笠山春日山)にちなんで命名された[8]。船籍港は京都府舞鶴市舞鶴港。同型艦は「敷島」「初瀬」「朝日」。1904年(明治37年)からの日露戦争では連合艦隊旗艦を務め、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将らが座乗した[9]1905年(明治38年)5月末、連合艦隊旗艦として日本海海戦を戦う。同年9月11日佐世保港で爆沈した[10]後に浮揚・修理され、1908年(明治41年)4月下旬に修理工事を終えた[10]1912年大正元年)10月3日、前部火薬庫火災事故を起こす[11]

大正時代は北方警備に従事した(シベリア出兵[8]。1921年(大正10年)9月1日、海防艦に類別変更。1923年(大正12年)9月1日、横須賀軍港関東大震災に遭遇、着底した[12]ワシントン海軍軍縮条約により除籍され、横須賀で記念艦となった[13]。現在は防衛省が所管し、神奈川県横須賀市の三笠公園に記念艦として保存され、現存している。
歴史
建造1906年版ジェーン海軍年鑑における三笠の要目

日清戦争後、ロシア帝国に対抗するために日本海軍は軍拡を進めた。その中で『六六艦隊計画』(戦艦を6隻、装甲巡洋艦を6隻配備する計画)の一環、その最終艦として「三笠」はイギリスのヴィッカースに発注されて建造された[14]

1899年(明治32年)1月24日、バロー=イン=ファーネス造船所で起工。1900年(明治33年)11月8日、進水した[8]1902年(明治35年)1月15日から20日まで公試が行われ、3月1日にサウサンプトンで日本海軍への引渡し式が行われた。建造費用は船体が88万ポンド、兵器が32万ポンドであった。

3月13日、イギリスのプリマスを出港。回航員の中には野村吉三郎(海軍少尉。後日、真珠湾攻撃時の駐米大使)もいた[15]スエズ運河経由で5月18日に横須賀へに到着した[8]。初代艦長は早崎源吾大佐。横須賀で整備後の6月23日に出港し、7月17日本籍港である舞鶴港に到着した。
戦歴「三笠」露天艦橋日本海海戦の指揮を執る東郷平八郎や艦長の伊地知彦次郎(左から4人目)。東城鉦太郎画『三笠艦橋之圖』

1903年(明治36年)7月24日、皇族軍人伏見宮博恭王(海軍大尉、9月26日に少佐進級)が「三笠」に着任、後部砲塔主砲)を指揮する第三分隊長となった[16]。12月28日、「三笠」は連合艦隊旗艦となった[16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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