三矢 重松
人物情報
生誕 (1872-01-09) 1872年1月9日
日本・山形県鶴岡市
死没 (1923-07-18) 1923年7月18日(51歳没)
日本・東京都
胃腸病
国籍 日本
出身校國學院
両親父:三矢維顕
母:町子
学問
時代明治・大正
研究分野国語学
国文学
研究機関東京高等師範学校
國學院大學
主な指導学生折口信夫
学位文学博士
特筆すべき概念三矢文法
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三矢 重松(みつや しげまつ、明治4年11月29日(1872年1月9日) - 大正12年(1923年)7月18日)は、日本の国語学者・国文学者。学位は文学博士。國學院大學教授。
折口信夫の師。弟に三矢宮松がいる。いわゆる「三矢文法」を築き、「最後の国学者」と呼ばれる壮烈な学風で知られる。 1872年(明治4年)1月9日、山形県鶴岡町大字二百人町(現・山形県鶴岡市)で生まれた[1]。父・三矢維顕、母・町子の二男。実家は代々庄内藩に使えた士族の家で、祖父の静は藩校の典学を勤めた人物であった。1877年(明治10年)、鶴岡朝暘学校に入学[1]。朝暘学校卒業後、西田川郡中学校を経て山形県尋常中学校に転入。在学中、中台直矢、角田俊次について漢学を学び、庄内英学会 1893年11月10日、文部省大臣官房図書課に勤務[1]。1895年(明治28年)、時の文部大臣・西園寺公望が講演の中で西暦紀元を用いて持論の「世界主義」を唱えたのに対し、国学徒としてそれを反駁する論陣を張り、筆禍により退官[5]。 退官後は、開成中学校嘱託となった。1896年(明治29年)6月、文部省の検定試験に合格して尋常中学校、師範学校国語科の免許を取得[5]。これによって同月17日、岡山県高梁中学校(現在の岡山県立高梁高等学校)教諭となった[1]。1898年(明治31年)4月、大阪府第五中学校(現在の大阪府立天王寺高等学校)に転じた[1]。ここで当時同校の学生であった折口信夫とはじめて出会う。1899年(明治32年)9月、嘉納治五郎の聘に応じて神田猿楽町の亦楽書院(のちの宏文学院)に勤務し、中国の留学生を教えた[6][1]。 1900年(明治33年)9月、外国語学校講師となった[1]。1901年(明治34年)1月には國學院講師となり[7]、7月からは東京高等師範学校講師となった。同月、亦楽書院の職を辞し[1]、1902年(明治35年)1月より弘文学院講師となった[1]。しかし、1903年(明治36年)7月、弘文学院を耳飾。同年10月には、國學院の商議員を嘱託された[1]。この頃より『國學院雑誌
経歴
出生から学生時代
大学卒業後