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三田藩(さんだはん)は、摂津国有馬郡三田(現在の兵庫県三田市)周辺を領有した藩。藩庁は当初三田城、のち三田陣屋。関ヶ原の戦いの後、有馬則頼が2万石で入封したのが起源。一時廃藩となったが、寛永10年に志摩(三重県)鳥羽から九鬼久隆3万6000石が転入して廃藩置県にいたる。丹波綾部藩は分家[1]。 鎌倉時代以前の三田は金心寺
略史
九鬼氏は藤原北家熊野別当の末裔で紀伊国牟婁郡(現在の三重県尾鷲市)で起こり、志摩国鳥羽藩(三重県鳥羽市)を拠点に九鬼水軍を統率し秀吉の九州征伐や朝鮮出兵で水軍総督を務めた大名である。守隆の死後、五男の久隆と三男の隆季との間に家督争いが起こり、この家督争いを理由に内陸の三田と綾部にそれぞれ移封となる。これにより、九鬼氏は鳥羽の地と水軍を失い、宗家を三田に移し廃藩置県までの約240年間、三田藩を統治することになる。 居城は三田陣屋で、現在の有馬高校校舎敷地(三田城跡)に二の丸・御茶屋・武器庫・煙硝蔵などを設け、現在の三田小学校敷地に御館が築かれた。
近世三田藩
1601年(慶長6年) 山崎家盛は関ヶ原の戦いで西軍に仕え敗戦するも、罪を問われることなく因幡国若桜藩に転封となる。代わって摂津有馬氏の出で東軍の武将であった有馬則頼が播磨国淡河から2万石で入封。
1602年(慶長7年) 有馬則頼が没すると丹波国福知山藩6万石を所領していた嫡男の豊氏が家督を継ぎ、三田藩2万石を併合し福知山藩8万石の所領となった。これにより三田藩は一旦廃藩となり三田城(車瀬城)も破却される。
1620年(元和6年) 福知山藩主の有馬豊氏は大坂の陣の武功により20万石の大名となり筑後国久留米藩に移封。
1626年(寛永3年) 出羽国上山藩から松平重直が3万石で三田に入封し三田藩は復活する。のちに、松平重直は豊後国高田藩(竜王藩)に転封となる。
1633年(寛永10年)幕府は 志摩国鳥羽藩の九鬼氏の家督相続にかかる争いを理由に、九鬼久隆を3万6千石で三田へ転封に処し、九鬼隆季へ新規に丹波国綾部藩2万石を宛行う。
九鬼氏の統治