三田文學
Mita Bungaku
創刊号の表紙
ジャンル文藝
刊行頻度季刊
発売国 日本
言語日本語
定価980円
出版社三田文学会
編集部名三田文学編集部
編集長関根謙
刊行期間1910年 - (存続中)
姉妹誌三田評論
『三田文學』(みたぶんがく)は、慶應義塾大学文学部を中心に刊行されてきた文芸雑誌[1]。目次 1910年(明治43年)5月に、慶應義塾大学幹事の石田新太郎の主導により、文学科教授の森?外と協議し、上田敏を顧問に、永井荷風を主幹に据えて創刊された。この時期の慶應義塾大学文学科は、課程を文学・哲学・史学の3専攻に分け、文学専攻では荷風のほか、小山内薫、戸川秋骨、馬場孤蝶、小宮豊隆を、哲学では岩村透を、史学では山路愛山、幸田成友、伊木寿一を教員に加えた。三田文学会 創刊期から、森鴎外、芥川龍之介ら既成の作家に発表の場を提供する一方、永井荷風は塾生(慶應義塾出身者)の弟子を多く育て、久保田万太郎、水上瀧太郎、佐藤春夫らが育った。創刊された「三田文学」に?外は、横浜港を舞台にした『桟橋』を発表、以後、6月号に『舞姫』後日談ともいえる『普請中』、7月号にロダンのモデルとなった日本女性をとりあげた『花子』、8月号に鴎外の分身ともいえる役人を描いた『あそび』、9月号に発禁処分への異議申し立てである『フアスチェス』、11月号に言論弾圧に抗議する『沈黙の塔』、12月号に虚無主義や無政府主義に対する意見を述べた『食堂』を発表するというように問題作を次々と三田文学に執筆した。荷風は、「三田文学」の創刊号から『紅茶の後』という随筆を連載し、「流竄の楽士」の中で政府の検閲制度を批判した。このような反体制の問題作が次々と掲載されるようになり、谷崎潤一郎の「飆風(ひょうふう)」を載せた号が発禁になったことから大学側と永井荷風が対立し、荷風は辞任し、後任には沢木梢(澤木四方吉)が主幹となるが、病に倒れ一時休刊となる。 1916年荷風が教授辞職後は次第にふるわなくなり、1925年に一時休刊となるが、1926年水上瀧太郎を中心に復刊を果たし、「三田派」と呼ばれる野口米次郎、木下杢太郎、三木露風、馬場孤蝶、山崎紫紅、黒田湖山、深川夜烏
1 沿革
1.1 創刊
1.2 永井荷風編集長
1.3 復刊と三田派
1.4 太平洋戦争から戦後
1.5 現在
1.5.1 内紛
2 歴代編集長
3 主な関係者一覧
4 表紙・カット(挿絵)
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
沿革 初代主幹の永井荷風
創刊
永井荷風編集長
復刊と三田派