三無事件
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最高裁判所判例
事件名破壊活動防止法違反
事件番号昭和42(あ)2220
昭和45年(1970年)7月2日
判例集刑集第24巻7号412頁
裁判要旨
?一 破壊活動防止法三九条および四〇条は、その所定の目的をもつて、刑法一九九条、一〇六条等の罪を実行するための具体的な準備をすることや、その実行のための具体的な協議をすることのような、社会的に危険な行為を処罰しようとするものであり、その犯罪構成要件が不明確なものとは認められない。
二 公訴棄却を求める申立は、職権の発動を促す意味をもつに過ぎず、これに対して申立棄却の裁判をする義務はない。
第一小法廷
裁判長岩田誠
陪席裁判官入江俊郎松田二郎大隅健一郎
意見
多数意見全員一致
参照法条
破壊活動防止法39条,破壊活動防止法40条,憲法21条,憲法31条,刑訴法338条,刑訴法339条,刑訴規則33条
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三無事件(さんゆうじけん[1][2][3]、さんむじけん)は、1961年昭和36年)12月12日日本で発覚したクーデター未遂事件。国会を襲撃し、「三無主義」に基づく新政権の樹立を目指したが、警察の摘発により未遂に終わった[4]

首謀者らは三無を「さんゆう」と呼んでいたが、一般には漢字の読みそのままに「さんむじけん」と呼ばれることが多い[5]
概要

川南工業社長の川南豊作首謀者として[6]、旧大日本帝国陸軍出身者らが[7]日本政府の要人の暗殺を計画し[6]、未遂に終わり警視庁公安部により逮捕された[7]。発生当初は国史会事件と称された[8]。国史会は陸軍士官学校出身の有志による日本史研究会で、同会のメンバーが本事件に複数参加していた[4]

1961年12月12日から1962年2月3日まで警視庁等が32箇所を捜索、川南豊作ら22人が逮捕され、12人が起訴された。捜査の過程で日本刀8振、ライフル銃2丁、防毒マスクなどが押収された[6]。川南が支出した資金は1328万7297円が確認され、装備品の他、旅費や活動費に使われていた。

12人が起訴された裁判では破壊活動防止法違反(政治目的殺人陰謀罪)が初めて適用され[7]、8人に有罪判決が下された[7]。破防法は1952年に日本共産党の「暴力革命」防止を目的として施行されたものだが、それまで起訴はされても実際に適用されたものはなかった[4]検察は予備罪も成立すると主張したが、二審は「実行行為着手前の行為が予備罪として処罰されるためには、当該基本的構成要件に属する犯罪類型の種類、規模等に照らし、当該構成要件実現(実行の着手もふくめて)のための客観的な危険性という観点からみて、実質的に重要な意義を持ち、客観的に相当の危険性の認められる程度の準備が整えられた場合たることを要する」と判示し、これを退けた[9]。二審有罪上告中に川南が死亡して公訴棄却となったほかは、上告棄却により7人の有罪が確定した。
三無

三無(さんゆう)とは「無税・無失業・無戦争」の三つの無の主張である[7]。彼らは老子の「無は有に転じる」という格言から、「さんむ」ではなく「さんゆう」と読んでいた。首謀者である川南豊作は川南工業の代表取締役を辞任したのち、社会変革の構想として関係者による参院選一斉立候補を考えており、そのキャッチフレーズとして「永久無税・永久無失業・永久無戦争」を挙げ、交流のあった矢野兼三の助言で林子平の六無に倣って、三無主義と名付けた[4]。構想執筆にはクーデター合理論小島玄之が協力し、日下藤吾、横田重左衛門(日本医科歯科大学教授)、佐野博らとも座談会を行なって考えを修正補強した[4]

また、田形竹尾が紹介した学生運動家の川下佳節と老野生義明により三無塾が1961年5月に設立された。これは、「金無く、名誉心無く、地位無き」三無の若人が、川南の唱える「無戦、無税、無失職」の理想社会建設を目指すための勉強会で、市川市会議員の富川進を顧問に同市で発足した[4]

無気力・無関心・無責任の1970年代の若者気質をさした「三無主義(さんむしゅぎ)」とは関係がない。

1970年の三島事件に影響を与えた。
社会背景

本事件発生の前年である1960年には、盛り上がる安保闘争に対抗するようにテロが続発した[4]。6月には日本社会党顧問河上丈太郎襲撃事件、10月には社会党委員長浅沼稲次郎暗殺事件、11月に掲載された深沢七郎の小説「風流夢譚」をきっかけに翌年2月には嶋中事件が起こっていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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