三淵藤英
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 凡例三淵 藤英
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕不明
死没天正2年7月6日1574年7月23日
改名藤之→藤英
別名通称:弥四郎、弾正左衛門尉
官位大和守
幕府室町幕府奉公衆
主君足利義輝足利義昭
父母父:三淵晴員、母:徳大寺家の女性?
兄弟宮川尼(武田信高室)、藤英、女(佐々木越中守室)、細川藤孝、玉甫紹j、梅印元冲、長岡義重、女(土御門久脩室)
秋豪光行朽木昭貞、朽木昭知、朽木昭長
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三淵 藤英(みつぶち ふじひで)は、戦国時代武将室町幕府末期の幕臣奉公衆)。三淵晴員の子。異母弟に細川藤孝。初名は藤之、のち藤英。「藤」の字は将軍足利義藤(後の義輝)より偏諱を賜ったもの。
生涯

藤英の母(養源院)は藤孝の母(智慶院)と異なるとされているが、『言継卿記』永禄11年11月24日条に三淵大和守(藤英)の母が徳大寺公維の邸宅に滞在しているとする記述があり、藤英の母が徳大寺家の関係者であった可能性がある(ただし、藤孝の母も公維とは遠縁にあたるため、藤孝の母の可能性もある)[1]

『鹿苑日録』天文9年8月10日条に、清光院の使者として三淵弥四郎が鹿苑院の汝雪法叔の元を訪ねてきたとあり、これが記録上の藤英の初出である[2]。なお、清光院は三淵晴員の姉で、足利義晴の養育係を務めていたことで知られている[3]

その後、弘治4年(1558年)、朝廷が当時近江国にいた将軍足利義輝に相談もなく「永禄」と改元したことで問題となっているが、5月になって勅使である万里小路惟房が同国坂本にいた義輝の元に出向いて改元の事後報告を行っているが、その取次を行った三淵弾左衛門尉が藤英である。これは『多聞院日記』永禄9年8月24日条に引用された同月20日付の龍雲院祐尊と三淵弾左衛門尉藤英の連署書状から比定可能である。ただし、弾左衛門尉を名乗った時期については不明である。また、永禄5年(1562年)9月2日付で大徳寺に出された禁制にある「弾左衛門尉藤之」の署名から、永禄初期には藤之と称しており、永禄5年から9年の間に藤英に改名したと推測できる[4]。また、当時の公家日記などから伊賀入道(晴員)と共に義輝の御部屋衆であったことも確認できる[5]。ところが、大徳寺禁制に藤英と共に連署した伊勢貞孝・柳本秀俊・薬師寺弼長はこの禁制が出される直前に三好長慶討伐を名目に挙兵を行って、禁制が出された10日後に貞孝は戦死している。このため、藤英も伊勢貞孝の挙兵に関与していたとする推測があり、実際にそれからしばらくの間記録から姿を消すことになる[6]。ただし、伊勢貞孝の挙兵については、足利義輝黒幕説[7]が出される一方で、挙兵の直前に貞孝の不正が義輝に告発されていたとする指摘[8]もされており、その真相が不明であるため、当時の藤英がどのような立場で義輝・貞孝と関わっていたかは不明である。

永禄8年(1565年)に第13代将軍・足利義輝が永禄の変三好三人衆らに殺害されると、藤英は表舞台に復帰して弟の藤孝と共に義輝の弟で一乗院門跡・覚慶(足利義昭)を、監禁されていた興福寺から一色藤長和田惟政、仁木義政、米田求政らと共に救出し、擁立して近江国矢島にて還俗させる。


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