三淵忠彦
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三淵 忠彦
みぶち ただひこ
生年月日 (1880-03-03)
1880年3月3日
出生地 日本岡山県
没年月日 (1950-07-14) 1950年7月14日(70歳没)
死没地 日本東京都
配偶者三淵静(後妻)
子女三淵乾太郎三淵嘉子(乾太郎妻)
出身校京都帝国大学法科大学
宗教キリスト教カトリック教会
初代 最高裁判所長官
任期1947年8月4日 - 1950年3月2日
任命者昭和天皇
片山内閣が指名)
前任者細野長良
(最高裁判所長官代行)
後任者田中耕太郎
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三淵 忠彦(みぶち ただひこ、1880年明治13年〉3月3日 - 1950年昭和25年〉7月14日)は、日本の初代最高裁判所長官である。栄典正三位勲二等瑞宝章

長男に三淵乾太郎[1](元浦和地方裁判所所長)がいる。
経歴・人物

会津藩士・三淵隆衡(家老・萱野長修の実弟)の子として生まれる。大学卒業後、書生を経て東京地方裁判所判事となり、大審院判事、東京控訴院上席部長などを歴任した。裁判官在任中には、弁護士であった片山哲労働法制定、家庭裁判所の設置などを求めたことに同調し、彼らが創設した中央法律相談所が発行する「中央法律新報」に寄稿するなど、片山との関係を深めている。

1925年大正14年)、45歳で退官し、三井信託株式会社の法律顧問となる。同社は信託業法1922年(大正11年)に制定されたのを受け1924年(大正13年)に設立され、まだ間もない頃であったため、誤りのない運用を行うための法律の専門家を必要としており、三淵がこれに応えた形であった。いっぽうで三淵の長男である乾太郎は、当時の裁判官の報酬が低く、これによる経済的事情が理由だったのではないかと後年推測している。

戦後、新憲法が制定され、最高裁判所が設立されることになったが、三淵は当初最高裁判事の候補者にも挙げられていなかった。しかし片山内閣が成立したことにより司法大臣となった福島出身の鈴木義男片山哲に三淵を推挙し、前述のとおり弁護士であり旧知の片山もこれに同意した。これに加え、GHQの指示によって当時の裁判所法に規定されていた裁判官任命諮問委員会の委員には、三淵の大審院時代の同僚や参議院議長松平恒雄がおり[注 1]、三淵を推した。松平の父で元会津藩主の松平容保と、藩主を庇って切腹した家老の弟であった三淵の父隆衡は、戊辰戦争に敗戦したのち厳しい道を共にしていた。

三淵は1947年(昭和22年)、中央公職適否審査委員会の審査を受けていたあいだ、7月22日、7月28日と裁判官任命諮問委員会の選考する最高裁判所裁判官候補者に入り、8月4日には片山内閣に選任され初代最高裁判所長官に就任し、次いで8月7日、公職就職禁止に非該当という結果が公表された[注 2]。67歳5か月での最高裁判所裁判官就任は、2022年11月時点においても最高齢での就任記録である。

長官就任にあたり、「裁判官は世間知らずであってはならず、政治に巻き込まれてはならないが、政治の動向に無関心であってはならない。国民のためによき裁判所を作るため、どうすればいいか他の14裁判官と相談、勉強していきたい」と感想を述べた[4]。就任にあたって司法大臣鈴木義男に対し、明鏡止水の心境で従事すべき裁判官を俗的な人事行政にあたらせるべきではないとして、従来の司法大臣に相当する事務総長を置くことを提言し、これが取り入れられている。戦災で大部分が崩壊した旧大審院の代わりとして皇居内になった旧枢密院庁舎で初めての最高裁判所裁判官会議が開かれ、長官を中心とした席の順序、六法全書や筆記用具等を公費で購入することなどが決議された[5]。旧枢密院庁舎では裁判ができないという話になり、最高裁の仕事場所として霞ヶ関の東京地方裁判所庁舎内庁舎の2フロアを間借りすることになったが、開いている判事室は3つしかなく、一部屋に5人の最高裁裁判官が入って職務を行っていた[6]

戦時中に米軍の空襲で渋谷の家が焼かれており、最高裁長官公邸ができるまでの数ヶ月間は小田原市から電車で最高裁に出勤した[7]

1948年(昭和23年)3月、GHQに対して、裁判官の地位が検察官を含む他の公務員と同視されないよう裁判官を「相当の報酬」とし、かつ他の公務員とは別個に決定されるよう望む旨の書簡を送り、裁判官の報酬等に関する法律制定のきっかけの一つを作っている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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