三浦義村
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 凡例三浦 義村
時代平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕仁安3年(1168年)?[1]
死没延応元年12月5日1239年12月31日
別名平六(通称
墓所神奈川県三浦市南下浦町金田
官位右兵衛尉駿河三浦介
幕府鎌倉幕府 侍所所司、評定衆
主君源頼朝頼家実朝藤原頼経
氏族桓武平氏良文流三浦氏
父母父:三浦義澄、母:伊東祐親の娘
兄弟三戸友澄、義村、重澄、胤義、他
朝村泰村、長村、光村、重村、家村、
資村、胤村、重時、良賢(僧侶)、
矢部禅尼土岐光定室、毛利季光室、
千葉秀胤
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三浦 義村(みうら よしむら)は、鎌倉時代初期の相模国武将鎌倉幕府の有力御家人桓武平氏良文三浦氏の当主・三浦義澄の次男(嫡男)。
生涯
幕府創設期

三浦義村が初めて史料に登場するのは『吾妻鏡寿永元年(1182年)8月11日条である。源頼朝正室(のちの政子)の安産祈願の祈祷のため、伊豆・箱根の両権現と近国の寺社に奉幣使を立てた記事の中に「安房東条?」へ遣わされた使者として「三浦平六」という名前が見える。これが義村である。また元暦元年(1184年)8月には源範頼を総大将とする平家追討軍に父・義澄とともに従軍、これが史料で確認できる初めての従軍となる[2]。なお、『源平盛衰記』37巻ではこの追討軍の構成について「十五六ハ小、十七以上ハ可?上洛?ト被?定タリ」[3]としており、参加資格は17歳以上であったことがわかる。歴史学者の高橋秀樹は義村がこれ以前に従軍した形跡がないことから、この年に17歳になった可能性が高いとして、生年を仁安3年(1168年)としている[1]

その後も文治元年(1185年)10月には頼朝の勝長寿院供養に供奉[4]、同3年(1187年)8月には鶴岡八幡宮放生会で射手を勤めている[5]。そして建久元年(1190年)の頼朝上洛にやはり父・義澄とともに供奉し、頼朝より有功の者として義澄が推挙を受けたため、既に叙任を受けていた父の勲功を譲られるかたちで右兵衛尉に任官した[6][注釈 1]
梶原景時の変・畠山重忠の乱・牧氏の変

建久10年(1199年)、頼朝が亡くなると、幕府内部における権力闘争が続発する。その中で三浦義村は中心的役割を果すことになる。その手始めは梶原景時の変である。侍所所司として御家人たちの行動に目を光らせる立場にあった景時は、結城朝光の御所での発言を謀叛の証拠であると将軍頼家に讒言した。窮地に立たされた朝光は義村に相談[7]。義村は和田義盛安達盛長と相談の上、景時を排除することを決断、有力御家人66人が連署した「景時糾弾訴状」を頼家の側近・大江広元に提出[8]。景時を惜しむ広元は当初は躊躇するものの、最終的には頼家に言上。これにより景時は失脚して所領の相模国一ノ宮の館に退いた[9]。さらに翌正月、景時は一族を率いて上洛の途に就き、義村は幕府の命で追討軍の1人として派遣されたが、追討軍が追いつく前に景時一族は駿河国清見関にて在地の武士たちと戦闘になり、嫡子・景季、次男・景高、三男・景茂が討たれ、景時も付近の西奈の山上にて自害することとなる。

また、元久2年(1205年)の畠山重忠の乱でも義村は重要な役割を果たしている。北条時政の後妻・牧の方の娘婿・平賀朝雅の讒訴により畠山重忠と嫡子・重保に謀叛の疑いが浮上、時政は2人を成敗することを決断する。6月22日早朝、稲毛重成(重忠の従兄)に招かれて鎌倉にいた重保を由比ヶ浜で取り囲み殺害したのは、義村の命を受けた佐久間太郎らだった[10]。さらに、武蔵から手勢百数十騎を引き連れて鎌倉に向かう重忠を討つべく討伐軍が編成されると、義村も参加した。両軍は二俣川で合戦に及び、4時間余りの激戦が繰り広げられたのち、重忠は愛甲季隆の放った矢に討たれて討死、重忠の死を知った重秀以下も自害した[10]

しかし事件後、謀反の企てはでっち上げであったことが判明する。そして翌23日夕刻、討伐軍にも加わっていた稲毛重成父子、榛谷重朝父子は重忠を陥れた首謀者として義村らによって誅殺されることとなる[11]。重忠・重成・重朝ら秩父一族は、かつて衣笠城の戦いで義村の祖父義明を討った仇でもあった。

同年の牧氏の変においても義村の関与は大きい。閏7月、時政と牧の方は将軍実朝を廃して、頼朝の猶子である朝雅を新将軍として擁立しようとする。『吾妻鏡』によると、19日に政子・義時らは義村、朝光、長沼宗政らを遣わして、時政邸にいた実朝を義時邸に迎え入れ、幕府内で完全に孤立無援になった時政と牧の方は20日に出家し、翌日には鎌倉から追放され伊豆国の北条へ隠居させられたとする。一方、『愚管抄』では、陰謀を聞いて驚いた政子が義村を呼び相談したところ、義村が実朝を義時の家に連れていき、まだ何も事は起こっていないのに郎党を招集して陣を張り、将軍の仰せとして時政を呼び出し故郷の伊豆国に送ったとしている。
和田合戦・実朝暗殺

建暦3年(1213年)2月、北条義時を排除しようと企む泉親衡の謀反が露見する(泉親衡の乱)。義村の従兄弟で侍所別当であった和田義盛の息子の義直義重と甥の胤長が関係者として捕縛される。その後、息子2人は配慮され赦免になるが、義盛は三浦氏を含む一族を挙げて甥の胤長も赦免を懇請した。だが胤長は首謀者格と同等として許されず流罪となり、さらに胤長の屋敷は没収された。そのため北条氏と和田氏の関係は悪化、義盛は親族である三浦一族など多数の味方を得て打倒北条の決起をする。しかし義村は弟の胤義と相談して直前で裏切り義時に義盛の挙兵を告げ、御所の護衛に付く。戦いは義時が将軍源実朝を擁して多数の御家人を集め、義盛を破り和田氏は滅亡した(和田合戦[注釈 2]。合戦後、論功行賞に際して義村と波多野忠綱が政所前の合戦における先登(一番駆け)をめぐって言い争うという一幕もあった[14][注釈 3]

建保7年(1219年1月27日、将軍実朝が公暁(実朝の兄である2代将軍源頼家の子)に暗殺される。


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