凡例三浦義同
『英雄百首』(歌川貞秀画)
時代戦国時代初期
生誕宝徳3年(1451年)[1]または長禄元年(1457年)[1]
死没永正13年7月11日(1516年8月9日)
改名義同→道寸(法名)
別名三浦介
墓所神奈川県三浦市三崎町小網代
官位従四位下 陸奥守
幕府室町幕府相模国守護代、相模国守護
氏族扇谷上杉氏→相模三浦氏
父母父:上杉(三浦)高救、母:大森氏頼娘
養父:三浦時高
兄弟義同、義教
三浦 義同(みうら よしあつ)は、戦国時代初期の武将。東相模の大名。一般的には出家後の「三浦道寸」の名で呼ばれることが多い。相模三浦氏の事実上の最後の当主である。 扇谷上杉家から、新井城(三崎城とも)主・三浦時高の養子に入る(先に義同の実父・上杉高救が時高の養子であったとする説もある)。しかし、時高に実子・高教
生涯
三浦氏の内紛
そのため三浦氏の被官は両派に分裂してしまう。明応3年(1494年)9月、義同は大森氏の支援を受けて新井城を攻めて時高・高教父子を滅ぼし、三浦家当主の座と相模守護代職(後に守護、時期不明)を手に入れた。その後、実子の義意(荒次郎)に家督を譲って新井城に据え、自らは相模中部の岡崎城(現伊勢原市)に拠った。
ただし、この内紛について、近年では義同が養父・時高を攻め滅ぼしたとするような大規模な軍事的内乱の発生を否定して、時高死後の三浦家中の混乱に乗じて義同が三浦氏に復帰し、その家督を奪ったとする考えもある。 その後、上杉定正の死後に家督を継いだ朝良 (道寸の従兄弟)と和睦して、台頭してきた安房国の里見氏と同盟を結んだ。 同時期の明応4年(1495年)、西相模を抑えていた小田原城の大森藤頼(道寸の母方の叔父にあたる)が、駿河今川氏の外戚・伊勢宗瑞(早雲庵宗瑞、以下「早雲」)によって城を奪われた(ただし、その年次については明応5年(1496年)以後とする異説あり。また、藤頼が山内上杉家の上杉顕定に降ったため、早雲に攻撃させたという説もある)。早雲は伊豆国と小田原を本拠に、次第に独立して戦国大名化し、関東へ本格的に進出を始める。道寸は藤頼を保護してこれと争うが、早雲は山内上杉家と対抗するために明応7年(1498年)、上杉朝良・三浦道寸に対して同盟を提案する。話し合いの結果、顕定が守護職であった伊豆を二分(早雲が伊豆半島を、道寸が伊豆諸島を領有)する事で和解が成立した。 その後、早雲と朝良は上杉顕定を立河原の戦いで破ったが、やがて両者は対立するようになり、必然的に扇谷上杉家傘下の三浦氏とも対立することになる。これに対して義同は永正7年(1510年)に小田原城を攻め、逆に早雲も岡崎城に攻撃を加えた。 永正9年(1512年)、早雲は兵を挙げ、岡崎城に攻撃を開始した。敵せずと見た道寸は弟の道香の守る住吉城 三浦浄心『北条五代記』[2]によれば、歌人・東常縁の指導を受けたともいわれている義同は、「うつものも 討たるる者も かはらけ(土器)よ くだけて後は もとのつちくれ(土塊)」という辞世の句を詠んで切腹した。『北条五代記』より前に成立したとみられる『北条記
後北条氏の相模進出
三浦家の滅亡
ギャラリー
三浦義同公墓所(三浦市三崎町油壺マリンパーク駐車場奥)
三浦義同公墓所解説板(墓所手前、義同辞世の歌あり)
真光院(油壷まで途中、三浦義同・義意父子座像祀られている)
脚注^ a b 『三浦義同』 - コトバンク
^ 巻9「三浦介道寸父子滅亡の事」
^ 巻2(2)「義同討死之事」
参考文献
『戦国人名辞典』(吉川弘文館、2006年、ISBN 4642013482)「三浦義同」(執筆:家永遵嗣)
『国史大辞典』(吉川弘文館)「三浦義同」(執筆:三浦勝男)
『日本史大事典6』(平凡社、1994年、ISBN 4582131069)「三浦義同」(執筆:佐脇栄智)
『吾妻鏡』
上杉孝良『改訂 三浦一族 その興亡の歴史』
横須賀市『横須賀市史』『新横須賀市史』
三浦一族研究会『三浦一族資料集』
三浦浄心『北条五代記』
『相州兵乱記』
関連項目
相模三浦氏
油壺
外部リンク
『三浦義同』 - コトバンク
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