三浦甲子二
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みうら きねじ
三浦 甲子二
生誕 (1924-06-20)
1924年6月20日
長崎県
死没 (1985-05-10) 1985年5月10日(60歳没)
国籍 日本
職業ジャーナリスト実業家
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三浦 甲子二(みうら きねじ、1924年大正13年)6月20日 - 1985年昭和60年)5月10日[1])は、日本ジャーナリスト実業家朝日新聞政治部次長を経て全国朝日放送テレビ朝日)専務を務めた。ソビエト連邦スパイとして活動したとする旧ソ連情報機関関係者からの証言やソ連国家保安委員会(KGB)文書の記載がある。
来歴・人物

三浦の前半生は、実は不明なことが多い[2]。本人の語るところでは、長崎県の今里家で生まれ、ほどなく秋田県の母方の三浦家に養子に出された。その経緯ははっきりしない[3]。ただ、日本精工社長・今里広記は、回想録で「三浦甲子二は親類筋」で祖父は長崎県選出の代議士今里準太郎だと記している[4]。実弟はザ・ベストテンなどに関わったTBSプロデューサーの今里照彦。

1946年(昭和21年)、21歳で慶應義塾大学法学部卒業を前にして、朝日新聞社に入社したことになっている[4]。戦前から戦時中にかけて何をしていたのか、本人は語ったことがなく、その間の履歴については不明で、入社の経緯もはっきりしない[4]。三浦と親しかった同僚らの話をまとめると、実際は小学校卒から新聞を各地へ送る発送部にアルバイトとして入りながら、6年後、30歳を前にして地方支局記者へと引き立てられた[4]。通信部の記録によれば、1952年(昭和27年)に長野支局、1954年に横浜支局に移り、ここで地元選出の大物政治家、河野一郎に密着、あたかも河野派メンバーのように振る舞った[4][5][6]。1957年には社内エリートが占める東京本社政治部に引き上げられている[4][5]

入社まもない現業部門の三浦は、反共産党の立場の組合運動で労組委員長の広岡知男(のち社長)に近づき[4]、組合を統括する4人の最高闘争委員の1人となる[7]。新聞ゼネストの際には、スト決行阻止に多大の貢献をした[5][8]。広岡が東京本社編集局長に就いた年に政治部入りを果たし[9]池田勇人、河野一郎ら大物政治家に深く食い込み、読売新聞社長となる渡邉恒雄NHK会長になった島桂次と並ぶ派閥記者として名を馳せていった[10]。また一介の記者に過ぎないのに、いつの間にか社主の村山家に出入りするようになり、『佐藤栄作日記』(1963年2月12日)には、「村山・朝日社長宅で岸(信介)夫妻と共に夕食に招かれる。例によって三浦君大いにシャベル」の記述がある[9]魚住昭は、池田が総理大臣を退任(1964年10月)した頃に「三浦の威光は朝日の社内を圧倒していた」と著書に記し、その理由について「後に社長になる広岡に引き立てられ、村山長挙社主の夫人・於藤にもかわいがられていたからだ」としている[11]筑紫哲也は、組合出身ではあるが「彼にはナベツネさんのような深刻な左翼体験もありません」と評し[12]、広岡は三浦は勝手に子分を自称する関係であったと回想している[9]

1960年(昭和35年)、村山長挙が社長に復帰して信夫韓一郎専務が辞任、広岡取締役・東京本社編集局長が西部本社代表に左遷されると、朝日では販売畑の常務・東京本社業務局長永井大三がナンバー・ツー、取締役・東京本社編集局長木村照彦がナンバー・スリーとなった。三浦は発送部時代から永井常務と付き合いがあり、大阪本社育ちの木村編集局長は東京の政財界に暗く、主要な人事は政治部次長の三浦に相談した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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