三浦浄心
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三浦茂正、『秀雅百人一首』より

三浦 浄心(みうら じょうしん、永禄8年(1565年) - 正保元年3月12日1644年4月18日))は、『北条五代記』『見聞軍抄』『見聞集』『そぞろ物語』『順礼物語』などの仮名草子の著者。

もと出口五郎左衛門尉茂正といい、相州三浦の出身で、後北条氏海賊役として仕えた三浦十人衆の出口氏の家に生まれた。13歳で父を亡くし、15歳から軍役を務め、26歳のとき小田原籠城を経験した。後北条氏滅亡後、武士から百姓となり、故郷の三浦で帰農したが、その後、江戸へ出て日本橋伊勢町近辺に住み、(私に)三浦五郎左衛門、三浦屋浄心を名乗った。江戸における連衆の1人で、昌琢や紹之と交流があった。晩年にあたる寛永後期に一連の著作を遺した。

子孫は江戸で旗本衆と交友・縁戚関係を持ちながら長く浪人を続け、正徳から享保初にその子・茂次の外孫が旗本の家を継ぎ、延享2年(1745年)に三浦義周が徳川重好外祖父となり、幕臣に取り立てられた。家伝の秘書だった『見聞集』は期の三浦義和の頃から伝写により流布した。
先祖

『北条五代記』寛永版によると、浄心の祖父・出口五郎左衛門尉茂忠は三浦氏に仕えていた[1]三浦導寸北条早雲に攻められたとき、城ヶ島に逃れて主君の滅亡後も抵抗したという[1]。その後、早雲の幕下となり、海賊役・三浦十人衆の1人として三崎の近辺に田地をあて行われた[1]

父・三浦五郎左衛門尉茂信は、相州三浦の住人で、北条家譜代の侍として高野台の一戦を戦い、永禄2年(1559年)冬に里見義弘が三浦へ船で渡海して行われた合戦や、永禄13年(1570年)春に駿河海武田信玄との間で行われた海戦で戦功を挙げ、北条氏政から感状をもらった[2]。永禄年中に北条美濃守氏親が三浦を知行したが、十人衆の田地はかわらず、郡役も10人で務めていた[1]

茂信の名は横須賀市公郷・永嶋氏の系図に見え[3]、永嶋出雲守正重の子、同正氏の弟とされている。同系図によると、永嶋正氏は永正10年(1513年)に家督を継ぎ、後北条氏に仕えて永禄7年(1564年)の国府台の合戦に参加するなどして、天正4年(1576年)に69歳で没している。後述の『相州三浦住三浦助伝記』中の正徳5年(1715年)の家譜によれば、茂信は永正5年(1508年)生まれ、天正5年(1577年)に70歳で病没していて、在世の時期がほぼ重なっている。『三浦古尋録』は、三浦茂信は永嶋出雲守である、とする[4]

『北条五代記』巻1「犬也入道弓馬に達者の事」[5]に言及のある、後北条氏に仕え、のち結城秀康に召抱えられた朝倉能登守(犬也入道)の家系は、『永嶋家系図』によると公郷・永嶋氏と縁戚関係にあり、茂信の父方の祖母の父も「朝倉能登守」、茂信の母方の祖父は「朝倉右馬之介」である。

『北条五代記』寛永版には、浄心は、三浦介家(導寸)の滅亡後、三浦に住み、三浦十人衆の家柄であったことから、江戸に上ってから(私に)三浦五郎左衛門を名乗るようになった(人からそう呼ばれるようになった)、とあり[1]、三浦介家の親類だとか嫡孫だといった事実関係には言及がない。祖父・茂忠と自身・茂正は出口姓で[1]、父・茂信は三浦姓で記されており[2]、『永嶋家系図』によると、永嶋氏は三浦氏の支族・大多和氏の子孫を称していたため、その関係から父・茂信が(出口氏の養嗣子となってからも)三浦氏を自認していた可能性がある。
生涯

『北条五代記』寛永版によると、浄心は永禄8年(1565年)に生まれ、13歳のとき父・茂信が死去したため、母に育てられ、15歳で家督を継ぎ、後北条氏に仕えた[6]天正18年(1590年)、26歳のとき、小田原籠城を経験[6]。小田原城の東側、芦子川の浜手の角矢倉の守備を受け持っていた[7]。同書には、浄心の持口より一町ほど上流の福門寺の地にあった捨曲輪を巡る、徳川家康の将・井伊直政の軍勢と、後北条氏方の山角上野守(介)父子の軍勢の戦いの様子が記されている[7]

後北条氏滅亡後、長谷川七左衛門支配下となった三浦半島で、十人衆は武士から百姓となった[1]。浄心も帰農して旧領の一部を耕したが、生活は苦しく、年貢の未進を出して代官に妻子を取られかけ、年貢の未進を整理した後、繁栄の噂を聞いて江戸へ出たという[1]

浄心が江戸へ出た時期は定かではなく、『北条五代記』には後北条氏滅亡の翌年、陸路を京都へ上ったことに言及がある[8]。また浄心の各作品、特に『見聞軍抄』や『順礼物語』からは、豊臣秀次豊臣秀頼と浅からぬ関係があったことがうかがえる[9]水江漣子は、『見聞集』に慶長2年(1597年)6月に神田の原大塚へ行人の火定(焼身自殺)を見に行った話があることから[10]、この頃までに江戸へ移っていたと推測している[11]

壮年の頃、江戸?浦賀三崎?伊豆?伊勢間の廻船の運航に関わっていたことをうかがわせる逸話が、各作品にみえる[12]鈴木三右衛門文書にある日本橋伊勢町の町割図

江戸では日本橋伊勢町に住んでいたことが『見聞集』にみえる[13]東京都公文書館所蔵『鈴木三右衛門文書』の万治3年(1660年)の文書に伊勢町の五人組の1人として「三浦五郎左衛門」の名が見え、浄心の子孫とみられている[14]。なお、伊勢町の名主で、町名の由来にもなったとされる伊勢氏は後北条氏の一族とされており[15]、同年に伊勢町の屋敷地を売却している[16]

浄心は、柳営に出入りのあった連歌師の昌琢や紹之と交流があり、江戸における連衆の1人であった[17]。昌琢が発句を詠んだ連歌のうち、『北条五代記』巻2「万の道。時代に寄てかはる事」[18]において慶長17年(1612年)に昌琢が江戸を訪れたときに浄心が脇を付けたとされている連歌のほかに、寛永2年(1625年)5月8日・江戸での何舟連歌に連衆として「浄心」の名がみえ[19]、(年不詳)3月の「筑波山知足院所望」連歌の連衆に「三浦五良左衛門」の名がみえる[20]。なお、『北条五代記』の作中で浄心は昌琢を「連歌の宗匠」と紹介しているが、『寛政重修諸家譜(寛政譜)』によると昌琢が幕府により連歌の宗匠に叙せられるのは寛永5年(1628年)のことである[21]。また『見聞集』には、上方から江戸へやってきた知人を江戸の歌枕へ案内する話がいくつかみえる[22]

後出の『相州三浦住三浦助伝記』中の正徳5年(1715年)の家譜によると、晩年は慈眼大師(南光坊天海)に帰依し、東叡山(上野寛永寺)で「浄心寺」という寺号を下賜され、菩提寺を建立した。正保元年(1644年)3月12日に病死。死後、子の五郎左衛門尉(茂次か)は、浄心の木像を浄心寺に安置した。東叡山が建立されたとき、浄心寺は(正徳5年当時の)清水観音堂の位置にあったが、普門院の用地として収公され、(正徳5年当時の)文殊楼の下、池之Jに代地が出た。しかしこの場所も収公され、そのとき、上野の役職に就いていた最教院から再度代地を願い出るようにと言われていたが、最教院が死去し、その後、代地は出なかった。


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