三浦朱門
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妻:曽野綾子とともに(1955年)
ペンネーム三浦 朱門(みうら しゅもん)
誕生 (1926-01-12) 1926年1月12日
東京府東京市
死没 (2017-02-03) 2017年2月3日(91歳没)
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
教育文学士(東京大学:1948年
最終学歴東京大学文学部言語学科
活動期間1951年 - 2017年
ジャンル小説随筆評論
主題日本国家のあり方
文学活動第三の新人
代表作『冥府山水図』(1951年)
『セルロイドの塔』(1960年)
『箱庭』(1967年)
『武蔵野インディアン』(1982年)
『望郷』(1987年)
主な受賞歴新潮社文学賞(1967年)
芸術選奨(1983年)
日本芸術院賞恩賜賞(1987年)
デビュー作『冥府山水図』(1951年)
配偶者曽野綾子()
子供三浦太郎(長男
親族三浦逸雄()
三浦暁子(長男の妻)
ウィキポータル 文学
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三浦 朱門(みうら しゅもん、1926年大正15年〉1月12日 - 2017年平成29年〉2月3日)は、日本作家

日本大学芸術学部教授文化庁長官(第7代)、社団法人日本文藝家協会理事長(第7代)、日本芸術院院長(第4代)などを歴任した。
略歴

東京府豊多摩郡(現:東京都中野区東中野生まれ。父はイタリア文学者の三浦逸雄[1]。野方第五尋常小学校(現:中野区立啓明小学校)、東京府立第二中学校(現:東京都立立川高等学校)から旧制高知高等学校を経る。同校在学中には禁じられている煙草を吸い、さらに厭戦的態度を示して無期停学になった[2]。旧制高知高等学校3年生の時に勤労動員され[3]、1945年7月21日、陸軍二等兵として千葉県我孫子で入隊、千葉県の仮兵舎で敗戦を迎える[4]

復学後、1948年東京大学文学部言語学科卒業[5]。1950年第17次『新思潮』に参加し、1951年の「冥府山水図」で「芥川の再来」と呼ばれ、1952年「斧と馬丁」で芥川賞候補となり、作家活動に入る。妻の曽野綾子(本名:三浦知寿子)とともに、“第三の新人”の一人[6]

父の口利きで1948年から日本大学芸術学部非常勤講師となる。1952年10月助教授、1967年10月教授となるが、もともと日大の教員になったのは三流私大なら不勉強な自分でも教えられるだろうと高を括ったためであり、殊に30代半ば以降は作家としての収入が助教授の給料の数倍に達し、教員をするのがバカらしくなり、そういう気持ちが態度や勤務状況に反映して同僚から反感を買ったという[7]。結局、1969年の日大紛争で学生からも孤立し、赤塚行雄とともに辞職[8]。のち中部大学女子短期大学教授、1991-95年学長を務めた[9]

2004年10月日本芸術院の院長に選出され、2014年9月末まで院長を務めた[10]。妻・綾子とともにカトリック信徒[11]で、同時に天皇崇拝家[12]

2017年2月3日間質性肺炎のため死去[13]。91歳没。
受賞・栄典

1967年 - 第14回新潮社文学賞(『箱庭』)[14]

1970年 - 聖シルベストロ教皇騎士団勲章

1983年 - 第33回芸術選奨文部科学大臣賞(『武蔵野インディアン』)[15]

1987年 - 日本芸術院賞恩賜賞[16]日本芸術院会員

1999年 - 第14回正論大賞文化功労者顕彰

役職

特定非営利活動法人日本映画映像文化振興センター理事長
[17]

教育課程審議会会長

財団法人日本民謡協会理事長

財団法人住友財団理事

社団法人日本文藝家協会理事、のち理事長

財団法人民間放送教育協会会長

文化庁長官

日本芸術院第二部長

日本芸術院院長

発言・逸話

ペンネームの「朱門」は、キリスト教の
聖人シモン・ペテロに因んでいる。なお、実姉も同様にキリスト教の聖人の名前に由来しているが、父・三浦逸雄がイタリア文学(ダンテ論)を専門としていたことに由来する[18]

1972年1月17日、田園調布の自宅に不審者が押し入ったが、隙をみて蹴飛ばすことで追い出した。警視庁が強盗未遂の容疑で捜査[19]

1985年、文化庁長官に就任し、「女性を強姦するのは、紳士として恥ずべきことだが、女性を強姦する体力がないのは、男として恥ずべきことである」「レイプ犯人が犠牲者として貞操についてルーズな思想の持主を襲ってくれればよいのです。」「彼女たちはそういうことにあっても、水溜りで転んだ程度にしか考えないでしょう」「これも自分が魅力的だからこんなことになったのだと、かえってお得意になってくれるかもしれないのです。」などの雑誌での文章が、東京・強姦救援センター(田島直美代表)などから抗議を受け、6月20日の参議院文教委員会で粕谷照美議員から追及され「売文業者として一種のだじゃれのつもりだったが、いろいろな点において書き間違った部分があると反省している」と陳謝した[20][21]

1990年永山則夫の入会を日本文芸家協会が拒否した際、理事長として一貫して永山の入会を支持した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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