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出典検索?: "三浦時高"
凡例三浦時高
時代室町時代後期 - 戦国時代前期
生誕応永23年(1416年)
死没明応3年9月23日(1494年10月22日)
改名時高→聖庵(法名)
別名義高
官位相模介(三浦介)
幕府室町幕府
氏族相模三浦氏
父母父:三浦高明
兄弟時高、出口高信、大森氏頼室
子高教
養子 : 高救、義同
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三浦 時高(みうら ときたか、応永23年(1416年) - 明応3年9月23日(1494年10月22日))は、室町時代後期から戦国時代前期の武将。相模三浦氏当主。官位は相模介(三浦介)。三浦郡三崎城(新井城)主。 応永23年(1416年)に三浦介三浦高明の子として生まれる。この年は上杉禅秀の乱が勃発した年で、父高明は鎌倉公方足利持氏に従って鎌倉の化粧坂の守備を担当するなどしたが、応永28年(1421年)には相模守護を解任されている。代わって守護になったのは持氏の近臣である上杉定頼であった。この後、時高は元服すると持氏に仕えるようになる。 持氏は、永享10年(1438年)に関東管領上杉憲実を討伐するために武蔵国高安寺に入った。これにより永享の乱の幕が切って落とされたが、この時に時高は持氏より鎌倉の留守を預かるよう命じられた。先例に従ってという理由であるが、時高は領地が少なくて多くの軍勢も動員できないとして当初これを断った。しかし、厳命を受けて最後には従っている。ところが、室町幕府第6代将軍足利義教が兵を起こした持氏の討伐を命じると、しばらくして時高にも義教からの誘いがあり、高時はその誘いに乗った。 幕府軍迎撃のために箱根山に向かった持氏であったが、9月27日に今川範忠と合戦して敗れた。それを横目に10月3日、時高は上杉憲実と結んで叛旗を翻すと軍勢を整えるためか鎌倉を放棄して三浦郡に引き上げた。翌4日には憲実が鎌倉に入ろうと上野国の平井城を出陣している。 17日に時高は二階堂氏とともに持氏のいない鎌倉に攻め込んで民家を焼くなどしたが、この時はすぐに引き上げている。11月1日再びいまだ持氏が戻っていないうちに二階堂氏とともに鎌倉を攻めると、持氏の御所を陥落させて鎌倉を占領した。翌永享11年(1439年)2月10日に足利持氏、義久父子と稲村公方足利満貞が将軍義教の命を受けてた上杉憲実によって攻められて自害して果てた。 永享の乱以後、時高は扇谷上杉家に従うと事実上の相模国の国主といえるほどその勢力を上げた。時高は扇谷上杉家の当主である上杉持朝の信頼を得ると、持朝の次男・高救を養子に迎えている。さらに、相模西部の大森氏頼と時高の姉妹の間に生まれた娘(時高の姪)を高救に娶わせると、その間に生まれた義同(時高から見れば姪孫)をも自らの養子としている。こうして時高は扇谷上杉家と大森氏との関係を強化していった。 永享12年(1440年)3月に勃発した下総国の結城氏朝・持朝父子が起こした反乱である結城合戦の際にも、幕府軍の総大将上杉清方が鎌倉を出陣する際に時高は先例に従って鎌倉の留守を務めている。 合戦は翌嘉吉元年(1441年)4月まで行われ、結城父子は討死し、父子が擁立していた足利持氏の遺児である春王丸と安王丸は将軍義教の命で殺害された。
生涯
鎌倉公方への謀反