三浦文丈
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三浦 文丈

名前
愛称フミ
[1]
カタカナミウラ フミタケ
ラテン文字MIURA Fumitake
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1970-08-12) 1970年8月12日(53歳)
出身地静岡県清水市
(現:静岡市清水区
身長174cm[2]
体重72kg[2]
選手情報
ポジションMFDH[3]OH[3]) / FW
利き足右足[4]
ユース
筑波大学
クラブ1
年クラブ出場(得点)
1993-1998横浜マリノス 146 (26)
1999京都パープルサンガ 23 (04)
1999-2000ジュビロ磐田 26 (01)
2001-2006FC東京 100 (06)
代表歴
1985-1986 日本 ジュニアユース
1987-1988 日本 ユース
1989-1991 日本 五輪
1995 日本0 (0)
監督歴
2010-2012横浜F・マリノスJY-MM
2016AC長野パルセイロ
2017アルビレックス新潟
2019-2021SC相模原
1. 国内リーグ戦に限る。2008年12月8日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

三浦 文丈(みうら ふみたけ、1970年8月12日 - )は、静岡県清水市(現:静岡市清水区)出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー(MF)[5]フォワード(FW)。元日本代表
来歴
現役時代

小学校2年の時にサッカーを始める[6]。6年次の1982年には清水FCの一員として全日本少年サッカー大会優勝。清水第五中学校3年次には全国中学校サッカー大会準優勝に貢献し、日本ジュニアユース代表に選出された[注 1]

1986年清水市立商業高等学校に進学。3年次の1988年に主将を務め、第67回全国高校サッカー選手権では「タレント軍団」の中でエース・精神的主柱となり[7] 抜群の展開力と運動量で[8] 優勝に貢献した。同期には古賀正人など[注 2]。また同年には日本ユース代表に選出され、AFCユース選手権1988に出場した。

1989年筑波大学進学。1年次からバルセロナ五輪代表に選出され1991年から1992年に行われたバルセロナ五輪アジア予選に出場、最終予選のバーレーン戦ではハットトリックを決める活躍を見せたが、本大会出場に導く事は出来なかった。また4年次の1992年には同大学の主将を務め総理大臣杯関東大学サッカーリーグの二冠に貢献した。

1993年Jリーグ横浜マリノスに入団。初年度からリーグ戦24試合に出場、翌1994年にはリーグ戦38試合に出場し、果敢にドリブル突破を仕掛ける[3][9]FW・攻撃的なMFとして活躍した。1995年にはサントリーシリーズ優勝するとともに、ダイナスティカップ日本代表に初選出されるが、代表としての試合出場は成らなかった。1996年、1997年にはJリーグ選手協会の監事を務めた[10]

1998年は試合出場機会が減少し、翌1999年には横浜M在籍時に指導を受けた清水秀彦に請われて[11]京都パープルサンガへ移籍。三浦知良との2トップも経験するも[9]、清水の監督解任を受けてシーズン途中でジュビロ磐田へと移籍[12][13]。磐田では同年末にJ1年間優勝を経験した[5]。また、この頃からポジションをボランチに転向した[3]

2001年FC東京へと移籍[14][15]。背番号「10」を背負った[注 3]2002年には開幕直後の対浦和戦(埼玉)にて、福田正博と激突し左膝前十字靭帯断裂及び内側側副靱帯を損傷する重傷を負い長期離脱[1]、年末の天皇杯で復帰するも、投入後わずかで自ら交代を申し入れ[1]、本格復帰は翌2003年になった。FC東京ではバランスを取って[6] 中盤を安定させ[17]、攻守に貢献する[3]プレー面だけではなく、チームを束ねる精神的主柱として[18][9][注 4]絶大な信頼を集めた[20][6][17]2004年にはナビスコカップで優勝を果たした。

2005年に入り出場機会を大きく減らしたものの[注 5]、先発出場の際には好パフォーマンスを見せており[22]、三浦としてもJ2など下位クラブならばまだ十分通用するという自信を持っていたが、愛着あるクラブでの現役引退を望み[23]2006年11月24日に現役引退を表明した[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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