三波伸介_(初代)
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初代 .mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}三波(みなみ) 伸介(しんすけ)
本名澤登(さわと) 三郎(さぶろう)
ニックネーム三波ちゃん
リーダー
キャップ
生年月日
1930年6月28日
没年月日 (1982-12-08) 1982年12月8日(52歳没)
出身地東京府東京市本郷区(現:東京都文京区
言語日本語
方言標準語
出身劇団「東童」
コンビ名てんぷく集団
トリオ名てんぷくトリオ
相方伊東四朗(トリオ→集団)
戸塚睦夫(1973年まで)
芸風コント
漫談
立ち位置中央
事務所太田プロダクション
→サワズ
活動時期1940年 - 1982年
過去の代表番組てなもんや三度笠
笑点
お笑いオンステージ
スターどっきり(秘)報告
三波伸介の凸凹大学校
作品ダメおやじ(映画)
他の活動俳優司会者
配偶者澤登和子
親族二代目三波伸介(長男)
弟子二代目三波伸介
ホームラン・たにし
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三波 伸介(みなみ しんすけ、本名:澤登 三郎〈さわと さぶろう〉、1930年昭和5年〉6月28日 - 1982年〈昭和57年〉12月8日[1])は、日本コメディアン俳優テレビ司会者タレント。昭和期を代表するテレビスターのひとり。東京府東京市本郷区(現:東京都文京区)出身。血液型はB型。長男は喜劇役者の二代目三波伸介

当たりギャグは「びっくりしたなぁ、もう!」。
来歴・人物
てんぷくトリオ結成まで

本郷区根津にて5人兄弟の三男として生まれる。

父の倉蔵は木挽町テイラーオーダーメイド紳士服)店舗を構え仕立工場を持つ比較的裕福な家庭環境に育つ。

杉並第一国民学校(現・杉並区立杉並第一小学校)に入学。国民学校の同期で一番仲が良かったのは、当時鉄道ファンで後に帝都高速度交通営団に就職して車両部長にもなった里田啓であった。里田は三波とは同一の学級(=クラス)になったこともあった上に、家が近所という関係であった。三波と里田は卒業後は別の進路を歩んだため30年以上音信不通であったが、1975年の学校100年祭での卒業生の集いで再会し、以後三波の死去まで二人の交流が続いた。その際、三波は里田に対して「やっぱ鉄道屋になったか。お前は鉄道が好きだったもんなぁ。」と声を掛けたが、これを聞いた里田は小学生の頃に鉄道ファンだったことを鮮明に覚えていたことについて、三波の記憶力の高さに驚いた旨と自著『車両を造るという仕事 - 元営団車両部長が語る地下鉄発達史』(交通新聞社。2014年4月15日発売)で語っていた。なお、同著書の記述では三波のことを本名の澤登君と呼び、三波と里田とが前後に映っている写真が1枚のみ掲載されている。

国民学校4年生時であった1940年、児童劇団「東童」[注釈 1]に加入し芸能活動を開始。

戦後、日本大学第二高等学校卒業後に進学した日本大学芸術学部映画学科は中退。後に浅香光代一座に参加。ここの座員には戸塚睦夫や客演などで玉川良一が出入りしていた。

その後東洋興業系劇場に入り、ここの座員で石井均と追って加入した戸塚が夜間に行っていたキャバレー回りの余興営業を石井の都合から代わって引き継いだ。

「三波・戸塚コンビ」で夜はキャバレーステージ、昼間は劇場座付で舞台と活動をしていたが突然出奔。中座、大阪へ単身で乗り込み1年余、玉川良一、東けんじらとコント「おとぼけガイズ」を結成しおもに大阪劇場に出演していた時期もある。
てんぷくトリオ詳細は「てんぷくトリオ」を参照

「おとぼけガイズ」を解消後は1961年に東京の舞台に復帰し、三波は個人として太田プロダクションに所属する一方、キャバレーの余興営業は戸塚とその劇団仲間だった伊東四朗が「三波・戸塚コンビ」として継続していた[注釈 2]。「(ニセ)三波伸介」[2]として馴染み人気になっていた伊東を外す訳にはいかず[3][注釈 3]、あらためて「本当は伊東四朗、本物の三波伸介、本人の戸塚睦夫」とキャバレーの司会者に自己紹介し「三波戸塚伊東トリオ」の3人で営業活動を再開し、あるきっかけから「ぐうたらトリオ」に改名した。

玉川良一との縁で三波はフジテレビの大島正俊ディレクターからテレビ出演の機会を掴み、三波と玉川の二人共演から三波単独で引き立てられる機会が増え「裕次郎はタフガイ、小林旭はマイトガイ、三波伸介はモンダイガイ(問題外)」と笑いを取って名を売り、三波のもう一方の顔である「ぐうたらトリオ」を制作担当達に紹介し熱心に売り込んだ結果、トリオのテレビ出演に成功。これに注目した日劇から出演依頼が舞い込んできた。出演に際してグループ名の「ぐうたらトリオ」には品位が無いと一方的に「てんぷくトリオ」へ改名させられたが、これ以降三波伸介、戸塚睦夫と伊東四朗の三人組は舞台やテレビのバラエティ番組を中心に人気を博す。流行語にもなった三波の当たりギャグ「びっくりしたなぁ、もう」はこの頃に生まれた。
『笑点』で司会者へ

1970年12月20日日本テレビ笑点』の3代目司会者に就任。そのきっかけは、同年2月8日にてんぷくトリオとしてゲスト出演した札幌の地方収録の回で、飛行機の欠航により出演できなかった前田武彦の代役として司会を務めたこと。当時はまだ司会経験が浅かったものの、元々落語に造詣が深かったこともあり、並み居る落語家達を相手に大喜利を取り仕切り、この時の司会が好評で、三代目司会者にすんなり収まった[4]。豪快な外見とは裏腹に繊細で研究熱心、台本を読み込み流れをシミュレーションして収録に臨んでいた。大喜利では、立川談志(初代司会者)時代のナンセンスなブラックユーモアを主体にした掛け合いから、落語家の丁々発止による掛け合いに代表されるような分かり易いドタバタ路線に変更。家族で楽しめる笑いにこだわり、番組自体の人気を上げたことはもちろん、自身がピン芸人としてブレイクするきっかけとなった。『笑点五十年史』では三波を「笑点中興の祖」として位置付けても異論はないと記されている[4]

1973年5月12日、三波が笑点の収録へ行った矢先に戸塚が肝硬変のため42歳で死去。三波は戸塚の死去を知り、深い悲しみに陥る。その後、戸塚の遺志のために残った伊東と2人で「てんぷく集団」と改名し活動を続けた。

その後「てんぷく」の活動を抑え、個人でテレビや舞台で喜劇俳優・司会者として活動。NHK総合テレビお笑いオンステージ』の「減点パパ(減点ファミリー)」コーナーでは、毎回ゲストの芸能人の似顔絵をゲストの家族の言う通りに描き上げ、自ら「阿佐谷セザンヌ」と称した。

また、フジテレビ『夜のヒットスタジオ』の司会を1974年4月から1976年3月まで務めた他、同局『スターどっきり(秘)報告』や毎日放送TBS伸介のグリコがっちりショッピング』、東京12チャンネル→テレビ東京三波伸介の凸凹大学校』などの司会を務めた。
晩年・突然の死

『三波伸介の凸凹大学校』収録翌日の1982年12月8日15時過ぎ、明かりが落ちた自宅の居間で倒れているのを、外出から戻って来た妻の和子と付き人の波連太郎が発見。


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