三河地震
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三河地震
明治村根崎十字路の被害状況
(現安城市根崎町)
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地震の震央の位置を示した地図
本震
発生日1945年1月13日
発生時刻3時38分23.2秒(JST
震央 日本 愛知県三河湾
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度42.1分 東経137度06.8分 / 北緯34.7017度 東経137.1133度 / 34.7017; 137.1133
震源の深さ11 km
規模   M6.8
最大震度   震度7:愛知県西尾市など(推定)
津波微弱
地震の種類大陸プレート内地震
逆断層
被害
死傷者数死者:2,306人、行方不明者:1,126人、負傷者:3,866人

プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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三河地震(みかわじしん)は、1945年1月13日午前3時38分23秒に愛知県三河湾で発生したマグニチュード6.8(Mw 6.6)の直下型地震である。また1945年の終戦前後にかけ、4年連続で1,000人を超える死者を出した4大地震(発生順に鳥取地震東南海地震、三河地震、南海地震)の一つである。
概要

震源地は三河湾(北緯34度42.1分 東経137度06.8分 / 北緯34.7017度 東経137.1133度 / 34.7017; 137.1133座標: 北緯34度42.1分 東経137度06.8分 / 北緯34.7017度 東経137.1133度 / 34.7017; 137.1133)で、深さは11km[1]。三重県津市で震度5を記録したが、震源に近い現在の西尾市などでは震度6(現在の震度階級では7)であったといわれる[2]

1ヶ月前の1944年12月7日に発生した昭和東南海地震の最大規模の余震とする説があるが、同地震に影響を受けて発生した誘発地震とする説もある[3]。地震発生当初は昭和東南海地震(第一次地震)に対して第二次地震とも呼称された[4]
各地の震度

震度4以上の地点は次の通り[1]

震度都道府県観測所
5三重県
4福井県敦賀
長野県諏訪飯田
岐阜県高山岐阜
愛知県名古屋
三重県亀山

断層

深溝断層(ふこうずだんそう)と横須賀断層によって起こされた地震で、断層は陸上部で18km、総延長は28km、最大の高低差は約2m、横ずれ変異量は約1mである[5]。この地震で形成された深溝断層は、1975年に愛知県指定天然記念物に指定されている。深溝断層は逆断層で、隆起側での家屋倒壊などの被害規模が大きく[6]、沈降側での被害は断層からの距離が10m以内に集中した[7]。2013年現在西尾市の妙喜寺には、当時の地割れ(地表地震断層)が保存されている[8]

北北西方向への延長線上には、1891年濃尾地震を引き起こした根尾谷断層帯が存在し、さらにその延長線上には1948年福井地震を引き起こした福井地震断層が存在する[9]
被害


明治村和泉本通りの被害の様子地震で大きく傾いた建物

震源が浅く、マグニチュード 6.8と規模が比較的大きかったにもかかわらず、被害報告はごくわずかしか残されていないため[10][11]、現在に至ってもこの地震について詳しいことは判っていない。しかし、震源域の三河地域では、昭和東南海地震よりも多くの死者が記録されており、死者2,306人、行方不明者1,126人、負傷者3,866人。家屋の全壊は7,221戸、半壊1万6,555戸、全焼2戸、半焼3戸、その他2万4,311戸とされる[12]。なお、近年になって地震被害を報告した当時の帝国議会秘密会の速記録集が見つかっており、これによれば愛知県の幡豆郡と碧海郡で死者2,652人に達したという[13]。一方、碧海郡明治村明治航空基地では顕著な被害は記録されていない。

死者が多かったのは幡豆郡福地村(現・西尾市)234名、西尾町、三和村、横須賀村275名(以上現・西尾市)、碧海郡桜井町(現・安城市)、明治村325名(現・西尾市、安城市、碧南市)、宝飯郡形原町233名(現・蒲郡市)などで、平坂町(現・西尾市)では堤防が4メートル沈下して79ヘクタールの水田が海水に没したほか[14]矢作古川周辺では液状化現象も見られた[7]。前述の被害が甚大な地区では、どの家族にも死者が出るほどの高い死亡率だったという。なお、震源を離れた葉栗郡中島郡名古屋市から一宮市付近でも一部で家屋の倒壊があった[15]。また、三河湾で小規模な津波の発生が確認されている[7][10]

局地的な被害はほかの直下型地震よりも深刻であった。被害状況は集落ごとに大きな差があり、ある集落は壊滅している一方で隣の集落はほとんど被害がないという状況も随所で見られたと言われている。37日前に発生した昭和東南海地震により、構造上重要な「ほぞ」が外れた半壊状態の家屋が物資及び人手不足から修理されず、新たな地震動により全壊に至った可能性が指摘されている。また、三州瓦の産地に近いことから、耐震性に欠ける瓦葺きの家屋が多く存在していたことも家屋の倒壊を促進したと考えられている。1日に40?50回の余震が発生していたため、家屋が無事な場合でも多くの被災者は屋内に戻ることができない状態であった[14]

死者・行方不明者数が多い明治以降の地震(日本・1885年以降)[16][17]順位名称発生日死者・行方不明者数(人)規模(M)
1関東地震関東大震災1923年9月1日105,3857.9
2東北地方太平洋沖地震東日本大震災2011年3月11日22,3129.0


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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