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三河国
■-三河国
■-東海道
別称三州・参州 (さんしゅう)
所属東海道
相当領域愛知県中・東部
諸元
国力上国
距離近国
郡・郷数8郡69郷
国内主要施設
三河国府愛知県豊川市
三河国分寺愛知県豊川市(三河国分寺跡)
三河国分尼寺愛知県豊川市(三河国分尼寺跡)
一宮砥鹿神社(愛知県豊川市)
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三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部[1]。
「三河」の名称と由来六十余州名所図会「鳳来寺山巌」
『古事記』には「三川」と表記され、7世紀の出土木簡にもみな「三川国」と記されている[2]。律令制-平城京までは「参河」と表記。長岡京以後は、「三河」と表記したことが、木簡から判明している。また、万葉集には三河は水河とも当て替えられている。
「三河」の国号の由来は不明である。山崎闇斎は、再遊紀行の中で、参河風土記逸文と称して、三大河説を唱える。さらに、江戸中期の三河国二葉松で、序文の著者である小笠原基長と太田白雪がこの三大河説を補強する。古事記伝や東海道名所図絵にも引用されていく。諸国名義考;斎藤彦麻呂にも引用されているが、三大河説に疑義を唱え、大川を称え御川という自説を載せている。尾張藩士の岡田啓による三河国号起源;参河国全図;天保8年や渡辺政香;参河志にも引用される。
明治維新直前の領域は、現在の愛知県の下記の区域に相当する。 645年、難波宮で行われた大化の改新後に穂国造と参河国造の支配領域を合わせて成立したと考えられている。参河国が確実に存在したのは律令制の成立以後である。これに対し穂国に関しては7世紀後半に石神遺跡から、三川国穂評と記載された木簡が出土しており、「穂」が三河の一集落であると読み取れることから存在を否定する説もある。しかし、国造国が評制に移行した例は阿蘇国造(阿蘇評)、宇佐国造
他にも、江戸末期に豊橋の羽田野敬雄が、加茂の神の御川という説を唱えたが、支持されるに至っていない。矢作川は古代から矢作川と呼ばれており、御川と呼ばれていた事実はない。加茂は、加茂郡(豊田市)のことで、矢作川の上流に当たり、加茂の神(加茂神社)に絡めたものである。
領域
豊橋市、豊川市、蒲郡市、田原市、新城市、北設楽郡(設楽町・東栄町・豊根村)、西尾市、額田郡(幸田町)、岡崎市、安城市、知立市、刈谷市、高浜市、碧南市、みよし市の全域
豊田市の大部分(須渕町・浅谷町・三分山町・下切町・下中町・島崎町・上中町・上切町・一色町を除く)
沿革
古代(三河、三川)に、雄略天皇の御代に菟上足尼が穂国造に定められたとされるが、「天孫本紀」では成務天皇に仕えた物部氏族の胆咋宿禰が三川穂国造の美己止直の妹・伊佐姫を妻としている。また、『古事記』にも丹波道主命の子・朝廷別王が穂別君の祖と見え、宝飯郡には朝廷別王を祀る神社が二社存在する。
西三河に該当する三河国造の本拠は、二子古墳のある鹿乗川流域遺跡群(安城市桜井町地域)と推定されている[3]。石神遺跡から出土した木簡に、桜井君、長浴部直と記載された地方国主を想定するものがある。また、三河国内では、古代の木簡は、安城市の下懸遺跡(小川町)・上橋下遺跡(古井町)・惣作遺跡(木戸町)など、いわゆる鹿乗川流域遺跡群にのみ出土しており、天平護田呉部足国(惣作遺跡)、算米物受被賜(下懸遺跡)など、天平という年号、呉部足国という古代豪族の人名、米の受取に関する文書、など、文字文明の早くからの普及が確認できるなど、何らかの古代の官衙があった可能性が高い。
西三河を南流する矢作川中流右岸に立地する北野廃寺跡は、飛鳥時代の創建と考えられる三河最古の寺院跡であり、南大門、中門、塔、金堂、講堂が一直線に並ぶいわゆる四天王寺式伽藍配置で造営された。陶塔・土器類のほか?仏・磬形垂飾といった優品が出土しており、伽藍規模の面から見ても、三河国造のような当地方の有力な豪族による造営が想定される。
また、市の付く地名が、その国の中心地と想定され、大市郷[4](安城市上条町)、古市(安城市古井町)と、「市人」と記載された墨書土器出土(二子古墳南の桜林遺跡;安城市桜井町桜林)など、安城市の鹿乗川流域にある。
地方の行政区画である郡は、豪族の支配領域が踏襲されて碧海、賀茂、額田、幡豆(はず)、宝飫(ほい)、八名、渥美の七郡であった(律令の施行規則『延喜式』民部式)が、後に設楽郡が宝飫郡から分立して八郡となった。各地に盤踞する豪族の内でも古墳時代を通じてヤマト政権と強い関係を持った国造から優先的に郡司に任命された。 承久の乱の戦功で足利義氏が守護職となり、三河に土着した足利氏の分家は吉良、仁木、細川、今川、一色といった西三河の地名を苗字とした。
中世