三沢光晴
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三沢 光晴

プロフィール
リングネーム三沢 光晴
タイガーマスク(2代目)
カミカゼ・ミサワ[† 1]
リオン[† 2]
本名三澤 光晴
ニックネーム方舟の盟主
ノアの象徴
全日本の象?
ミスター三冠
アンタッチャブル
エルボーの貴公子
王道の継承者
超世代軍の旗手
ガラスのエース[† 3]
身長185cm
体重110kg
誕生日 (1962-06-18) 1962年6月18日
死亡日 (2009-06-13) 2009年6月13日(46歳没)
出身地北海道夕張市生まれ[7]
埼玉県越谷市育ち[7]
所属プロレスリング・ノア
スポーツ歴レスリング
器械体操
トレーナージャイアント馬場
ジャンボ鶴田
ザ・デストロイヤー
ドリー・ファンク・ジュニア
デビュー1981年8月21日
引退2009年6月13日
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三沢 光晴(みさわ みつはる、1962年6月18日 - 2009年6月13日)は、日本の元男性プロレスラー。本名:三澤 光晴(読み同じ)。北海道夕張市出身、埼玉県越谷市育ち。血液型O型。1981年全日本プロレスにてデビューし、同団体のトップレスラーとして活躍した後、2000年プロレスリング・ノアを旗揚げした。
生涯
少年時代

1962年6月18日北海道夕張市に生まれる。父親は北海道炭礦汽船に勤務していたが、三沢が生まれて間もなく夕張炭鉱が閉山同然の状態となったため、一家は埼玉県越谷市へ転居した[8][9]。そのため、三沢に北海道での記憶は全くないという[10]。三沢の母親は「樹」という文字が好きだったため「秀樹」と名付けるつもりだったが、父親がそれを無視し、当時のテレビドラマの主人公だったという「光晴」名で勝手に出生届を出してしまったため「光晴」と名付けられた[11]

三沢は子供のころから体が大きかったが、当時から運動神経が良く[12]、小学校時代には越谷市が開催した走り幅跳びの大会で優勝したこともある[12][13]。ただし、三沢曰く幼稚園の頃から家に一人でいることが多かったといい、近所でやっていた少年野球チームに入ろうとしたことがあったものの仲間と打ち解けることができず、「意外に内向的な子供だったんですよ」と振り返っている[14]。なお、小学生の頃の三沢はボクサーになりたいと思っていた[15]

中学校に入学すると器械体操部に入部[† 4]。2年生の時、テレビで全日本プロレス中継を見て「観るよりやるほうが絶対におもしろい」と直感した三沢はプロレスラーを志すようになる[16][17]。三沢は中学校を卒業してすぐにプロレスラーになるつもりだったが、担任の教師と母親にレスリングの強い高校へ進学して基礎を学んでからの方がよいと説得され、埼玉県内にレスリング部があるのは埼玉栄高校だけだったため、当時2年連続でインターハイを制していた足利工業大学附属高等学校に特待生として進学し、同校のレスリング部に入部した[18][19][† 5]。三沢は高校の3年間を学校の寮で過ごし、ハードな練習に明け暮れる日々を送った[† 6]。三沢は入学して1か月が経った頃に行われた練習試合で他校の2年生を相手に勝利し[18]、3年時には国体(フリースタイル87kg級)で優勝するなど活躍したが[24]、三沢にとってレスリングはプロレスラーになるための手段に過ぎず、競技自体を好きになることはなかった[† 7]

なお、三沢は高校2年時に寮を抜け出し、当時六本木にあった全日本プロレスの事務所を訪れ、入門を志願したことがある[26]。この時はジャンボ鶴田から「頑張って高校を卒業してから来なさい。俺は大学を卒業してからプロレス入りしたんだから、決して遅くはないと思うよ」と諭されて断念している[27]
全日本プロレス入門

高校卒業後の1981年3月27日、全日本プロレスに入門。同年8月21日に浦和競馬場正門前駐車場で行われた越中詩郎戦でデビューした[28][† 8]。入門から5か月でのデビューは全日本プロレス史上最速であった[32]。1983年にはルー・テーズ杯争奪リーグ戦に出場して決勝に進出し、越中に敗れて優勝はならなかったものの、この試合の特別レフェリーを務めたルー・テーズは「日本で見た若手選手の試合のベストバウトじゃないか」とこの試合を高く評価した[33]。三沢の1年前に入門したターザン後藤によると、三沢は受身を覚えるのが早く、瞬く間に自身と同じレベルに達したといい[34][35]、またコーチ役だった百田光雄によると、三沢はあらゆる種類の受け身を1回教えれば大体覚えたという[35]冬木弘道によると三沢は当時から天才タイプで、「(三沢は)誰かから『あれやってみろ』と言われたこと」がすぐにできたといい、頭の中でイメージした動きができる理想的なレスラーだと評している[36]。ジャイアント馬場は、練習において受け身の音を聞いただけで三沢が受け身をとったことがわかったとされている[5][37]

もともと全日本プロレスではジャイアント馬場以下、ジャンボ鶴田、タイガー戸口天龍源一郎ロッキー羽田桜田一男などの大型レスラーが重視される傾向にあったが、若手レスラーの指導に当たっていた佐藤昭雄の後押しを受けて頭角を現すようになる[38][† 9]


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