三桝豊
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みます ゆたか
三桝 豐
1925年の写真、満33歳。
本名三桝 豐三郎(みます とよさぶろう)
別名義三桝 萬豐(みます まんほう)
生年月日 (1892-03-02) 1892年3月2日
没年月日不詳年
出生地 日本 愛知県名古屋市中区
身長168.2cm
職業俳優
ジャンル新派新劇劇映画時代劇現代劇サイレント映画トーキー
活動期間1907年 - 1942年
配偶者三神蝶子
著名な家族八万田和見(実娘)
主な作品
『血と霊』
元禄快挙 大忠臣蔵 天変の巻・地動の巻
元禄忠臣蔵 前編・後編
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三桝 豊(みます ゆたか、1892年3月2日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12]。三桝 豐と表記されることもある。本名は三桝 豐三郎(みます とよさぶろう)[1][2][4][6][7][8][9][10][11][12]だが、三桝 豐次郎(みます とよじろう)[3]、三桝 豐二郎(読み同じ)の説もある[5]。後年は三桝 萬豐(みます まんほう)と名乗った[2][11][12]新派新劇を経て、日活向島撮影所日活大将軍撮影所新興キネマ東京撮影所などのバイプレーヤーとして活躍、1920年代後半からは時代劇にも出演し、大敵役吉良上野介を3度演じたことで知られる[2]
人物・来歴

1892年(明治25年)3月2日愛知県名古屋市中区に生まれる[2][4][5][6][7][8][9][10][11][12]。『現代俳優名鑑』(揚幕社)には、生年月日は「明治廿六年三月二日」(1893年3月2日)である旨が記されている[1]。また、『日活向島俳優名鑑』(日本キネマ社)によれば、生年月日は上記の通りだが、出生地は大阪府大阪市である旨が記されている[3]。初め旧制愛知中学校(現在の愛知中学校・高等学校)に通学していたが、後に大阪府大阪市にある私立明星商業学校(現在の明星高等学校)に転校した[2][6][7][8][10][11]

1907年(明治40年)、同校在学中に新派俳優高田實の門下となり、芸名を「三桝 豐」を名乗って、東京府東京市神田区三崎町(現在の東京都千代田区神田三崎町)にあった東京座の新派大合同公演で初舞台を踏む[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10]。その後、自ら一座を組織して各地を巡業していたが、1910年(明治43年)に静間三郎一座に加わる[1][2][7][8][10][11][12]。翌1911年(明治44年)には帝国演芸に加入し、関西地方での巡業を続けた[1][2][7][8][10][11][12]。『日活向島俳優名鑑』などによれば、1914年(大正3年)、天然色活動写真小阪撮影所(大阪帝国キネマ)に入社し、同所で映画デビューを果たした[1][3]というが、同時期の出演歴は不明である。

この間、東京俳優学校を経て、新時代劇協会などに所属していた元新劇女優の三神蝶子と結婚[13]。1930年代後半、文学座研究所を経て、日活多摩川撮影所の女優となった八万田和見(本名三桝福子、1920年 - 没年不詳)が娘として生まれた[11]

1921年(大正10年)8月、松竹蒲田撮影所に入社、同年11月1日に公開された賀古残夢監督映画『琵琶歌』などに脇役として出演する[1][2][3][5][6][7][8][10][11][12]。翌1922年(大正11年)12月には、日活向島撮影所に移籍し、1923年(大正12年)11月9日に公開された溝口健二監督映画『血と霊』など、数本の作品に出演した[2][3][5][6][7][8][10][11][12]。ところが、同年9月1日に発生した関東大震災によって同所は一斉解雇となったため、間もなく山本嘉一、小泉嘉輔、酒井米子らと共に日活京都撮影所へ異動となる[2][4][5][6][7][8][9][10][11][12]。1926年(大正15年)以降からは、時代劇にも多く出演するようになり、中でも1930年(昭和5年)4月1日に公開された池田富保監督映画『元禄快挙 大忠臣蔵 天変の巻・地動の巻』では、吉良上野介役に抜擢[2]。また、この間に片岡千恵蔵プロダクションの作品にも数本出演した[2]

『現代俳優名鑑』など一部の資料によれば、東京府荏原郡蒲田町(現在の東京都大田区)、東京府東京市赤坂区新町四丁目(現在の東京都港区赤坂)、京都府京都市中京区西ノ京大炊御門町(下立売通)、京都府京都市上京区鷹司町、京都府京都市右京区嵯峨野秋街道町と転々と住み、身長は5尺5寸5分(約168.2センチメートル)、体重は14貫500匁(約54.4キログラム)、趣味は野球骨董玩具であり、嗜好物は刺身、嫌いな物はである旨が記されている[1][3][6][7][8][9][10]

1932年(昭和7年)10月、日活専務取締役に新任した中谷貞頼による大解雇事件に遭い、退社する[2][10][11][14]。退社後、しばらくは東京府東京市で骨董店を経営する傍ら、余暇として太秦発声映画、木下トーキープロダクションの作品に出演していた[2][10]。1933年(昭和8年)10月、片岡千恵蔵プロダクションに入社し、本格的に活動を再開する[2][10]。1934年(昭和9年)、新興キネマ太秦撮影所(現在の東映京都撮影所)に移籍するが、翌1935年(昭和10年)には新たに開所した新興キネマ大泉撮影所(新興キネマ東京撮影所とも、現在の東映東京撮影所)に移籍[11][12]。以降、1939年(昭和14年)3月1日に公開された曽根千晴監督映画『燦めく星座』などの現代劇に出演したほか、松竹大船撮影所の作品にも助演した[11]。ただし、1979年(昭和54年)に発行された『日本映画俳優全集 男優編』(キネマ旬報)など一部の資料によれば、千恵プロ解散後の1938年(昭和13年)に新興東京に移籍したとしている[2][11][12]が、『キネマ旬報』1935年(昭和10年)4月1日号の特輯附録「日本撮影所録」において、同誌発行時点で既に新興東京に移籍していることが確認出来る[15]ため、誤りである。


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