三根郡(みねぐん)は、佐賀県(肥前国)にあった郡。 1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。 三根郡は、古くは[1]『肥前国風土記』『延喜式』などに見えて、『和名抄』では「岑」と記す。郡名の由来は[1]『肥前国風土記』に景行天皇が神埼郡三根村付近を行幸の際にこの地で安眠することができたので「御寝」(みね)の意から三根村の名がおこり、海部直鳥が三根村を含む地域を神埼郡から三根郡を分郡を願い出て、そのさいに三根村が郡名になった。 神亀元年(724年)に創建された千栗八幡宮は、当郷の鎮守であったと思われる。また、宇佐神宮の別宮となったとみられ、以後その五所別宮 「肥前国風土記」「延喜式」[1]によると、漢部(あやべ)、千栗(ちりく)、物部(もののべ)、米多(めた)、財部(たからべ)、葛木(かつらぎ)の6郷で、 『肥前国風土記』によれば[1]、推古天皇の時代に来目皇子が新羅に向かうときに、筑紫までに来て物部の若宮部に社を建てて物部郷と名付けた。また、来目皇子は[1]渡来した忍海漢人に兵器を作らせた所が漢部郷だと伝わる。なお、米多郷の領域は、かつては筑志米多国造(都紀女加の後裔)が治めていた。 神名帳比定社集成 『河上神社文書』の正応5年(1292年)の河上宮造営用途支配惣田数注文[1][7]によると、 安楽寺御領(安楽寺天満宮) 荘園分 公田分 とある。 鎌倉時代の主な在地領主は、綾部氏、板部氏[10]などがある。 南北朝時代には、足利尊氏により一色範氏が九州探題に任命された。補佐として、綾部城に仁木義長、千栗城に上野頼兼を置いた。一色氏は、南朝の菊池氏と綾部、千栗をめぐって争っている。 室町時代の主な勢力は、九州探題の渋川氏と少弐氏の一族の馬場氏、横岳氏がある。
郡域
三養基郡上峰町の全域
三養基郡みやき町の一部(江口、西島以南)
歴史
古代
郷
漢部郷 … みやき町原古賀の綾部神社一帯に比定。
千栗郷 … みやき町千栗の千栗八幡宮一帯に比定。
物部郷 … みやき町板部の物部神社一帯に比定。
米多郷[3] … 上峰町前牟田の米多一帯に比定。
財部郷[4][5] … みやき町西尾付近に比定。
葛木郷 … みやき町天建寺の葛木神社一帯に比定。葛城部(葛城氏)が[1]移住した可能性が高い。
社名読み格付記社名所在地備考
凡例を表示
中世
荘園と公領
米多荘 … 57丁3反
矢俣保[8]…330丁
米多荘 … 34丁
中津隈荘 … 160丁
綾部荘 … 70丁
三根東郷 … 266丁2反1丈
三根西郷 … 393丁9反
寄人[9] … 68丁1反
武家の勢力
綾部城…元は綾部氏の居城。渋川満頼が拠点して以降、渋川氏の居城に。後に、馬場頼周が渋川氏から城を奪う。支城に白虎山城、臥牛城などがある。
西島城 …文安元年(1444年)までに横岳頼房が築いた。
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