三村 勲基本情報
国籍 日本
出身地福岡県
生年月日 (1924-03-08) 1924年3月8日
没年月日 (2010-03-17) 2010年3月17日(86歳没)
身長
体重164 cm
62 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション三塁手
プロ入り1946年
初出場1946年
最終出場1955年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
飯塚商業専修学校
専修大学
八幡製鐵所
中部日本軍
中部日本ドラゴンズ (1946 - 1947)
急映フライヤーズ (1948)
大映スターズ (1949)
松竹ロビンス (1950 - 1952)
広島カープ (1953 - 1955)
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三村 勲(みむら いさお、1924年3月8日 - 2010年3月17日)は、福岡県出身のプロ野球選手(内野手)。1955年の登録名は三村 勇夫。 飯塚商業専修学校(のち飯塚商業高等学校)から専修大学へ進み、八幡製鐵所を経て、1946年に中部日本軍(現:中日ドラゴンズ)に入団[1]。1948年に球団代表の赤嶺昌志が辞任。赤嶺の事を慕っていた三村はのちに共に行動をする事になる金山次郎、小鶴誠らと共に赤嶺の後を追って急映フライヤーズに移籍する[1]。この年に新田恭一コーチと出会い、のちに小鶴が有名となるゴルフスイング打法を教わった[1]。 1949年に金山、小鶴と共に大映スターズに移籍。この年に教わった打法が開花し、1割台だった打率も.297と成績を上げ、二桁本塁打も記録した[1]。1950年に2リーグ制となったこの年は松竹ロビンスに参加。共に行動してきた金山が1番、三村が2番[2]、小鶴が3番となり、水爆打線の一角として活躍し、圧倒的な強さでセ・リーグ優勝となった[1]。この年の三村は2番ながら犠打数は0だった[1]。 1953年に再び三人一緒に広島カープに移籍。しかし、広島では松竹時代に痛めた左膝の怪我に泣き出場試合数も減った[1]。1955年に現役を引退した。引退後はロビンス交通に勤務した。 2010年3月17日、肝細胞癌のため死去[3]。満86歳没。 年
来歴・人物
詳細情報
年度別打撃成績
度球
団試
合打
席打
数得
点安
打二
塁
打三
塁
打本
塁
打塁
打打
点盗
塁盗
塁
死犠
打犠
飛四
球敬
遠死
球三
振併
殺
打打
率出
塁
率長
打
率O
P
S
1946中部日本81283255296511608826652--25--137--.255.324.345.669
1947117380345326611529316747--27--132--.191.252.270.522
1948急映96323287215611307316968--28--044--.195.267.254.521
1949大映1185074548913532413214441131--52--054--.297.370.471.841
1950松竹12658550510213419216205721320--77--37915.265.366.406.772
195110945238952891521314757124--59--0738.229.330.378.708
19521064133782682211411733201--30--4697.217.282.310.591
1953広島88257223255741119636316--28--0416.256.339.430.769
1954461561291320311285006020--1212.155.273.217.490
1955144843582011310000500140.186.271.302.573
通算:10年9013404300839471212925611074306522335035101046438.237.318.357.676
各年度の太字はリーグ最高
背番号
8 (1946年 - 1947年)
5 (1948年、1950年)
10 (1949年)
6 (1951年 - 1952年)
9 (1953年 - 1954年)
4 (1955年)
登録名
三村 勲 (みむら いさお、1946年 - 1954年)
三村 勇夫 (みむら いさお、1955年)
脚注^ a b c d e f g カープ50年 夢を追って、中国新聞社、1999年11月、P60
^ “所沢の山賊超え!? 水爆にダイナマイト! 西武打線とプロ野球の歴代最強打線を比較してみた・前編(週刊野球太郎)
^ “元プロ野球松竹内野手の三村勲氏死去