三木松平家
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三木松平家
丸に蔦[注釈 1]
本姓称・清和源氏
家祖松平信孝
種別武家
出身地三河国碧海郡三木
凡例 / Category:日本の氏族

三木松平家(みつぎまつだいらけ)は、三河国碧海郡三木郷(現在の愛知県岡崎市上三ツ木町)発祥の松平氏の庶流。徳川家康の大叔父にあたる松平信孝が始祖とされ[1]十八松平の一つとされる。嫡流は江戸幕府の開府以前に断絶し、『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)編纂時点では庶家2家が旗本として存続している。

家康から見て最も新しく松平宗家から分かれた家であり、『寛政譜』では最初に家譜が掲げられている[注釈 2]
沿革
立家から「絶家」まで

徳川家康の曾祖父にあたる松平信忠は、家督を清康に譲る際[1]、二男の信孝(蔵人)に.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}械木(ねむのき)(合歓木、現在の岡崎市合歓木町)を[1]、三男の康孝に三木の地を分与した[2]。天文4年(1535年)、松平信定桜井松平家。信孝の叔父にあたる)が松平広忠(信孝の甥にあたる)を岡崎から逐ったが、信孝は大久保忠俊らとともに広忠の帰還を謀り、天文6年(1537年)5月1日に広忠は岡崎への帰城に成功した[1]。信孝は広忠に重く用いられたが、やがて増長し、松平親長岩津松平家)や、弟の康孝の遺領を押領し[1]、三木に拠点を移した[3]。「三木松平」という家名は信孝が三木に住したことによるとされる[1][4]が、この土地は弟から押領した土地ということになる。

天文16年(1547年)正月、信孝が今川家に年始の使者として派遣されている留守中に、妻子や家臣が岡崎から追放された[1]。『寛政譜』は「岡崎の老臣等」が信孝の増長を警戒し、第二の信定となる危惧を広忠に告げたという事情を載せる[1]。信孝は今川義元に調停を要請したが、広忠や「岡崎の老臣等」との関係修復は実現せず[1]、上和田城主松平忠倫に与して織田信秀に通じ[1]、広忠から離反した[1][4]。なお、この事件を広忠の後見人である信孝と老臣等(阿部大蔵ほか)との権力争いの結果とする見解[5]や、盟友水野信元と連携した上での離反とする(広忠と於大の方の離縁の実際の原因とする)見解[6]もある。信孝は三木城および岡城を拠点として岡崎の広忠と戦い、天文17年(1548年)4月に菅生河原で戦死した[7][4]

信孝の子・松平重忠(九郎右衛門)は家康に仕えて大番頭を務め、慶長5年(1600年)致仕、慶長6年(1601年)12月2日に死去[7]。しかし、重忠の跡を継いだ子の忠清(与十郎)も同年12月22日に死去した。忠清には嗣子がなかったため、三木松平の本家は絶家とされる[7]。また信孝の外孫榊原正吉の娘が庄内藩主酒井家次に嫁いで血脈を伝えている。
松平忠利とその子孫

忠清の弟・松平忠利(九郎右衛門)は、これより先に[注釈 3]父の知行から500石を分与されて別家している[7]。しかし慶長14年(1609年)に伏見城番中の「落度」を咎められて改易された[7](これは、上司にあたる大番頭水野忠胤の処分と関連する[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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