この項目では、兵庫県三木市にあった三木城について説明しています。三重県尾鷲市に存在した城については「三木城 (紀伊国)」をご覧ください。
logo三木城
(兵庫県)
模擬城壁
別名釜山城・別所城
城郭構造平山城、丘城
天守構造不明(天守と称される土地あり)
築城主別所則治
築城年長享2年(1492年)前後
主な改修者前野長康、中川秀政
主な城主別所氏、豊臣秀吉配下武将
廃城年元和元年(1615年)
遺構曲輪、土塁、空堀、井戸、天守台等
指定文化財国の史跡[1]
再建造物模擬城壁
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度47分59.537秒 東経134度59分16.307秒 / 北緯34.79987139度 東経134.98786306度 / 34.79987139; 134.98786306
三木城(みきじょう)は、播磨国美嚢郡三木[2](現・兵庫県三木市上の丸町)にあった日本の城。平山城。釜山城や別所城とも呼ばれる。小寺氏の御着城、三木氏の英賀城と並び播磨三大城と称された。 城跡は美嚢川の南岸の台地にあり、明石の北約19km、姫路の東約31kmの地にあり、それほど肥沃の土地ではなかったが、京都-有馬は古くから整備された交通の要所(湯山街道)に築城された。 天正6年(1578年)から2年(20ヵ月)に渡って、織田方の羽柴秀吉と別所長治との間で兵糧攻め、三木合戦(三木の干殺し)を含めて、激しい攻城戦が繰り広げられたことで知られている。この三木合戦の際には神吉城(印南郡)、志方城(印南郡)、淡河城(美嚢郡)、高砂城
概要
本来の城郭は現在の三木市街地部分も含むものであったが、本丸周辺だけが上の丸公園として残っている。公園内には長治の辞世「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」の歌碑や、城外への抜け穴があったと伝えられる「かんかん井戸」、そして近年立てられた長治の像がある。公園に隣接してみき歴史資料館(旧三木市立図書館)、城郭跡の下には滑原(なめら)商店街がある。
毎年5月5日には長冶を偲び、「別所公春まつり」が開催されている。 三木城の築城時期に関しては諸説あってはっきりしない。そもそも君ヶ峰城
沿革
この地に城を築いたのは別所則治で、突然歴史上に登場する。文明15年(1483年)冬、播磨守護赤松政則が山名政豊に大敗し堺に逃亡した。翌文明16年(1484年)2月に政則が家臣団により家督を廃されたが、別所則治は政則を擁して上京し、室町幕府大御所足利義政の助力を得て家督を復活させた。