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三方領知替え(さんぽうりょうちがえ)は、江戸時代に江戸幕府が行った大名に対する転封処分の手法のひとつ。大名3家の領地(知行地)を互いに交換させることを言う。例えば、領地aを持っている大名家Aを領地bへ、領地bを持っている大名家Bを領地cへ、領地cを持っている大名家Cを領地aへ同時に転封すること。「三方領地替え」「三方所替え」「三方国替え」とも書く。江戸時代を通じて何回か行われている。4家が関係した「四方領知替え」の例もある。 陸奥国白河藩主榊原忠次を播磨国姫路へ、姫路藩主松平直矩を越後国村上へ、村上藩主本多忠義を白河へ転封したもの。6月9日に発令された。松平直矩が幼少であり、西国の要として重視されていた姫路藩主は重荷である、とされたため。長じてのちに直矩は姫路藩に復帰している。 伊勢国亀山藩主松平乗邑を山城国淀へ、淀藩主松平光慈を志摩国鳥羽へ、鳥羽藩主板倉重治を亀山へ転封したもの。11月1日に発令された。 越後国高田藩主松平定賢を陸奥国白河へ、白河藩主松平明矩を播磨国姫路へ、姫路藩主榊原政純を高田へ転封したもの。11月1日に発令された。榊原政純の父である榊原政岑に対する幕閣からの隠居謹慎に次ぐさらなる懲罰、および政純がまだ幼いため西国守備の要衝である姫路は不相応である、とされたことによる。 上野国館林藩主太田資俊を遠江国掛川へ、掛川藩主小笠原長恭を陸奥国棚倉へ、棚倉藩主松平武元を館林へ転封したもの。9月25日に発令された。 日向国延岡藩主牧野貞通は幕閣で出世し江戸に近い常陸国笠間藩へ、笠間藩主の井上正経が陸奥国磐城平藩へ、磐城平藩主の内藤政樹は御家騒動や百姓一揆の懲罰として延岡藩へ転封となった。江戸時代期間中の大名の転封として、陸奥国磐城平(現・福島県東南部)から日向延岡(現・宮崎県北部)への転封は最も長距離の転封記録である。 肥前国唐津藩主土井利里を下総国古河へ、古河藩主松平康福を三河国岡崎へ、岡崎藩主水野忠任を唐津へ転封したもの。9月晦日に発令された。 遠江国浜松藩主井上正甫を陸奥国棚倉へ、棚倉藩主小笠原長昌を肥前国唐津へ、唐津藩主水野忠邦を浜松へ転封したもの。9月14日に発令された。唐津藩の義務である長崎見廻役 陸奥国白河藩主松平定永を伊勢国桑名へ、桑名藩主松平忠堯を武蔵国忍へ、忍藩主阿部正権を白河へ転封したもの。3月24日に発令された。白河藩主を隠居していた元老中首座松平定信が、港湾財源を持つ桑名への転封を狙って仕掛けたものとされているが、異説として定永が江戸湾の海防警備への負担に耐え切れず江戸湾岸の下総国佐倉藩への転封を願ったところ、佐倉藩主堀田正愛の抗議を受けて紛糾したため、佐倉藩が白河藩の替わりに江戸湾警備を引き受ける代償として行われた懲罰的転封との説もある。
慶安2年(1649年)
享保2年(1717年)
寛保元年(1741年)
延享3年(1746年)
延享4年(1747年)
宝暦12年(1762年)
文化14年(1817年)
文政6年(1823年)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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