三島通陽
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日本政治家三島 通陽みしま みちはる
三島通陽(1953年)
生年月日1897年1月1日
出生地 日本 東京府麻布区
(現:東京都港区
没年月日 (1965-04-20) 1965年4月20日(68歳没)
出身校学習院中退
前職小説家
劇作家
演劇評論家
所属政党(国民協同党→)
緑風会
称号正三位
勲二等旭日重光章
子爵
配偶者三島純
親族祖父・三島通庸(栃木県令)
祖父・四条隆謌(貴族院議員)
父・三島彌太郎(貴族院議員)
義父・松岡均平(貴族院議員)
義弟・阪谷希一(貴族院議員)
参議院議員
選挙区全国区
当選回数1回
在任期間1947年5月3日 - 1950年5月2日
貴族院議員
選挙区子爵議員
在任期間1929年12月21日[1] - 1947年5月2日[2]
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三島 通陽(みしま みちはる、1897年明治30年)1月1日 - 1965年昭和40年)4月20日[2])は、日本政治家小説家劇作家演劇評論家位階勲等爵位正三位勲二等子爵二荒芳徳とともにボーイスカウト運動を日本に広めた人物として知られる。東京府麻布区生まれ、学習院中退[3]ペンネームに三島 章道(みしま しょうどう)。

祖父は三島通庸。父は第8代日本銀行総裁を務めた三島弥太郎、母は四条隆謌侯爵の三女・加根子。妹・壽子の夫は阪谷希一、妹・梅子の夫は土方与志。妻は松岡均平の長女・純[4]。叔父に三島弥彦がいる。
経歴

幼少期から文学に親しむ。一方で、祖母・和歌子から薩摩郷中の掟を教わる(*)。

1903年(明治36年)、学習院初等科に入学。

1907年(明治40年)、10歳の時に叔父の三島弥彦に連れられて、弥彦が審判をする第一高等学校第三高等学校の野球試合の観戦に行った。このときファールボールが胸に直撃したことが原因で、肋膜炎(胸膜炎)を発症し、約3か月間、入院する。退院後は大磯町にあった三島家の別荘で療養を余儀なくされる。これを機に大磯小学校に転入(*)。後、学習院と大磯小学校の双方に友人を持ったことを生涯の自慢にしたという。

大磯での療養生活中に、特に学習院の先輩が立ち上げた白樺派を好んで読書に勤しむ。謄写版印刷機を買ってもらい友人と『チェリー』という名の雑誌を月2回、発行していたという(*)。

1911年(明治44年)、学習院初等科へ復帰。友人の土方与志らとともに雑誌『山水』や『三光』を発行。

この年、叔父・三島弥彦の1912年ストックホルムオリンピック参加への旅立ちを新橋駅にて見送る(*)。

1917年(大正6年)、土方与志ら学習院の友人らと劇団「友達座」を結成。

1919年(大正8年)、パリ講和会議に向かう牧野伸顕留学のため同行するが、父・弥太郎の死去を受けて急ぎ帰国、3月31日、家督を継承して子爵を襲爵する[5]。帰国後、友達座に合流する。ところが上演のための女優募集が批判される。9月、最終的に宮内省からの干渉があり解散に追い込まれる。

1929年(昭和4年)、祖父・三島通庸が山形県令だった時に起きた関山隧道開鑿工事に関わる爆発事故の慰霊碑に揮毫。今も旧48号線旧道に残っている。

1932年(昭和7年)、貴族院子爵議員となり、研究会の幹部として活躍。

1935年(昭和10年)9月12日、東京宝塚劇場の取締役に就任(1943年12月9日まで)。

1937年(昭和12年)、日本ウエイトリフティング協会の会長となる(1948年まで)。


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