三島事件
バルコニーで演説する三島由紀夫
場所 日本東京都新宿区市谷本村町1番地
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度41分34秒 東経139度43分43秒 / 北緯35.69278度 東経139.72861度 / 35.69278; 139.72861座標: 北緯35度41分34秒 東経139度43分43秒 / 北緯35.69278度 東経139.72861度 / 35.69278; 139.72861
日付1970年(昭和45年)11月25日(水曜日)
午前10時58分頃 – 午後0時20分頃 (JST (UTC+9))
概要三島由紀夫、森田必勝ほかで成る民兵組織「楯の会」のメンバー5名が市ヶ谷駐屯地内の東部方面総監部を訪問し、益田兼利総監を拘束。幕僚らを斬りつけた後、三島がバルコニーで自衛官に決起の檄を訴え、その後総監室で三島と森田が割腹自決に至ったクーデター未遂事件。
武器日本刀、短刀、特殊警棒
死亡者2人(三島由紀夫、森田必勝)
負傷者8人(幕僚、自衛官)
被害者東部方面総監、幕僚、自衛官
犯人楯の会メンバー5人(三島由紀夫、森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖)
対処懲役4年の実刑判決(監禁致傷、暴力行為等処罰に関する法律違反、傷害、職務強要、嘱託殺人)
テンプレートを表示
三島事件(みしまじけん)とは、1970年(昭和45年)11月25日に作家の三島由紀夫(本名・平岡公威)が、憲法改正のため自衛隊に決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。三島が隊長を務める「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件(たてのかいじけん)とも呼ばれる[1][2]。
この事件は日本社会に大きな衝撃をもたらしただけではなく、日本国外でも速報ニュースとなり、国際的な名声を持つ作家が起こした異例の行動に一様に驚きを示した[3][4]。警視庁が2016年に実施した「警視庁創立140年特別展 みんなで選ぶ警視庁140年の十大事件」のアンケート投票において三島事件は第29位となった(警視庁職員だけの投票では第52位)[5]。
※なお、以下では三島自身の言葉や著作からの引用部を〈 〉で括ることとする(家族・知人ら他者の述懐、評者の論評、成句、年譜などからの引用部との区別のため)。
経緯
総監を訪問し拘束舞台となった市ヶ谷駐屯地。事件当時の看板は墨文字の書体で「陸上自衛隊市ヶ谷駐とん地」となっていた[6]。渦中となった東部方面総監部は1994年に朝霞へ移駐している。
1970年(昭和45年)11月25日の午前10時58分頃、三島由紀夫(45歳)は楯の会のメンバー森田必勝(25歳)、小賀正義(22歳)、小川正洋(22歳)、古賀浩靖(23歳)の4名と共に、東京都新宿区市谷本村町1番地(現・市谷本村町5-1)の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地正門(四谷門)を通過し、東部方面総監部二階の総監室正面玄関に到着。出迎えの沢本泰治3等陸佐に導かれ正面階段を昇った後、総監部業務室長の原勇1等陸佐(50歳)に案内され総監室に通された[7][8][注釈 1]。
この訪問は21日に予約済で、業務室の中尾良一3等陸曹が警衛所に、「11時頃、三島由紀夫先生が車で到着しますのでフリーパスにしてください」と内線連絡していたため、門番の鈴木?2等陸曹が助手席の三島と敬礼し合っただけで通過となった[6][注釈 2]。
応接セットにいざなわれ、腰かけるように勧められた三島は、総監・益田兼利陸将(57歳)に、例会で表彰する「優秀な隊員」として森田ら4名を直立させたまま一人一人名前を呼んで紹介し、4名を同伴してきた理由を、「実は、今日このものたちを連れてきたのは、11月の体験入隊の際、山で負傷したものを犠牲的に下まで背負って降りてくれたので、今日は市ヶ谷会館の例会で表彰しようと思い、一目総監にお目にかけたいと考えて連れて参りました。今日は例会があるので正装で参りました」と説明した[7][11]。
ソファで益田総監と三島が向かい合って談話中、話題が三島持参の日本刀・“関孫六”に関してのものになった。総監が、「本物ですか」「そのような軍刀をさげて警察に咎められませんか」と尋ねたのに対して三島は、「この軍刀は、関の孫六を軍刀づくりに直したものです。鑑定書をごらんになりますか」と言って、「関兼元」と記された鑑定書を見せた[7][11]。
三島は刀を抜いて見せ、油を拭うためのハンカチを「小賀、ハンカチ」と言って同人に要求したが、その言葉はあらかじめ決めてあった行動開始の合図であった[7]。しかし総監が、「ちり紙ではどうかな」と言いながら執務机の方に向かうという予想外の動きをしたため、目的を見失った小賀は仕方なくそのまま三島に近づいて日本手拭を渡した[7]。手ごろな紙を見つけられなかった総監はソファの方に戻り、刀を見るため三島の横に座った[11]。
三島は日本手拭で刀身を拭いてから、刀を総監に手渡した。刃文を見た総監は、「いい刀ですね、やはり三本杉ですね」とうなずき、これを三島に返して元の席に戻った。この時、11時5分頃であった[7]。三島は刀を再び拭き、使った手拭を傍らに来ていた小賀に渡し、目線で指示しながら鍔鳴りを「パチン」と響かせて刀を鞘に納めた[10][12]。
それを合図に、席に戻るふりをしていた小賀はすばやく総監の後ろにまわり、持っていた手拭で総監の口をふさぎ、つづいて小川、古賀が細引やロープで総監を椅子に縛りつけて拘束した[7]。古賀から別の日本手拭を渡された小賀が総監にさるぐつわを噛ませ、「さるぐつわは呼吸が止まるようにはしません」と断わり、短刀をつきつけた[7][11]。
総監は、レンジャー訓練か何かで皆が「こんなに強くなりました」と笑い話にするのかと思い、「三島さん、冗談はやめなさい」と言うが、三島は刀を抜いたまま総監を真剣な顔つきで睨んでいたので、総監は只事ではないことに気づいた[11]。その間、森田は総監室正面入口と、幕僚長室および幕僚副長室に通ずる出入口の3箇所(全て観音開きドア)に、机や椅子、植木鉢などでバリケードを構築した[7][13]。 お茶を出すタイミングを見計らっていた沢本泰治3佐が、総監室の物音に気づき、その報告を受けた原勇1佐が廊下に出て、正面入口の擦りガラスの窓(一片のセロハンテープが貼られ、少し透明に近づけてある)から室内を窺うと、益田総監の後ろに楯の会隊員たちが立っていた。
幕僚らと乱闘