三島中州
[Wikipedia|▼Menu]

三島中洲

生誕1831年1月22日
備中国窪屋郡中島村
死没 (1919-05-12) 1919年5月12日(88歳没)
東京府東京市麹町区
国籍 日本
研究機関備中松山藩
津藩
昌平黌
二松學舍
東京帝国大学
興亜会
補足
冨士霊園
プロジェクト:人物伝

三島 中洲(みしま ちゅうしゅう、文政13年12月9日1831年1月22日) - 大正8年(1919年5月12日)は、江戸時代末期から大正時代の漢学者東京高等師範学校教授、新治裁判所長、大審院判事、東京帝国大学教授、東宮御用掛、宮中顧問官二松學舍大学の前身となる漢学塾二松學舍の創立者である。重野安繹川田甕江とともに明治の三大文宗の一人に数えられる。正三位大東文化協会初代理事長。

本名は毅で、字は遠叔、通称貞一郎、中洲は号。地元の名族三村氏の子孫を称した。
目次

1 生涯

1.1 幼少時代

1.2 私塾牛麓舎時代

1.3 江戸へ

1.4 漢学の再興

1.5 年譜

1.6 墓

1.7 栄典


2 人物・思想

2.1 教育観

2.2 義利合一論

2.3 名の由来

2.4 書道への支援


3 逸話他

4 著作等

5 脚注

6 参考文献

7 関連項目

8 外部リンク

生涯 三島が編集に携わった漢和大字典(三省堂・1903年)

1830年備中国窪屋郡中島村(現岡山県倉敷市中島)に生まれる。1843年備中松山藩山田方谷に、1852年からは伊勢国三重県津藩斎藤拙堂儒学を学んだ。1854年黒船来航の際は江戸に出向き、危機感を抱いて著した書物が認められ、帰郷すると藩への出仕を勧められた。翌年には再び江戸に上って昌平黌に入り、佐藤一斎安積艮斎に師事、1859年、故郷に戻り、藩校有終館で陽明学を教えた。中洲は儒学を重要視する一方、技術面では西洋の良いところを取り入れることを献策していたため、尊皇攘夷思想たちには疎んじられていた。明治維新後は政府の大審院判事に取り立てられたが、やがて政府の財政難によって退職し、自宅に漢学塾二松學舍を創設し、二松學舍大学のもとを築いた。
幼少時代

文政13年(1830年12月9日備中国窪屋郡中島村(現岡山県倉敷市中島)に里正の三島正c(寿太郎)・柳の次男として生まれる。本名は毅、字は遠叔、通称、貞一郎、別号に桐南、絵荘、陪鶴、陪龍、また風流判事と詩作のとき用いていることがある。天保8年(1837年)2月、8歳のとき父寿太郎が江戸で死去する。この頃、寺子屋で習字を習い、11、2歳の頃、丸川松隠の養子・達龍について四書五経の素読を受ける。
私塾牛麓舎時代

天保14年(1843年)8月、14歳のとき備中松山藩の儒者山田方谷の私塾牛麓舎に入り、19歳のとき塾長となる。備中松山藩の元締、吟味役となり、藩務多忙の方谷にかわり舎生の訓育に当たる。この頃貞一郎と称す。嘉永5年(1852年)3月、23歳のとき伊勢津藩斎藤拙堂に師事する。翌年、『探辺日録』を作る。在津中、玉乃世履鶴田皓を知る。安政3年(1856年)3月、伊勢を去り、翌年備中松山藩藩士となる。
江戸へ

安政5年(1858年)4月、28歳のとき藩主の許しを得て江戸に出て昌平黌に入り、佐藤一斎安積艮斎に学ぶ。翌年帰郷し、6月に藩主に召されて松山藩に赴き、藩校有終館会頭に就任。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:31 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef