三屋清左衛門残日録
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『三屋清左衛門残日録』(みつやせいざえもんざんじつろく)は、藤沢周平著の連作短編時代小説

別册文藝春秋1985年夏季号から1989年新春号に連載され、1989年に文藝春秋から単行本が刊行された。1992年文春文庫に収録されている(ISBN 978-4167192273)。
概要

三屋清左衛門は、用人として仕えた先代藩主の死去に伴い、新藩主に隠居を願い出て、国元で隠居生活に入った。隠居の日々は暇になるかと思われたが、実際には友人の町奉行が抱える事件や、知人やかつての同僚が絡む事件の解決に奔走することになる。さらには、藩を二分する政争にも巻き込まれていく。

1993年平成5年)から仲代達矢の主演により『清左衛門残日録』のタイトルで、NHKでテレビドラマ化された。また2016年(平成28年)からは北大路欣也の主演によりテレビドラマ化され、時代劇専門チャンネルBSフジ(HD版)、スカパー!4K総合(4K版)で放送。詳細は「#テレビドラマ」を参照
舞台である藩

作品中には名称も地方も明示されていないが[注 1]、描かれている風物や名物(ハタハタなど)から海坂藩であると推定する人もいる[1]
登場人物
主人公
三屋清左衛門
三屋家の隠居。若くして家督を継ぎ、家禄120石の御小納戸役
[注 2]から始まって、隠居前は270石(+役料50石)の用人にまで登り詰めたが、先代藩主が死去したことで、家督を息子又四郎に譲って隠居したい旨を新藩主に申し出た(物語開始時点の1年2ヶ月前)。その後も新藩主の求めに応じて、1年ほど江戸屋敷にとどまって、残務整理と後進の指導に当たり、それから国元に戻って本格的な隠居生活に入った。この時、52歳[注 3]。隠居生活の徒然に、「残日録」と題した日記を付けている。これは嫁の里江が心配したような「死ぬまでの残りの日を数える」という意味ではなく、「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」という意味で名付けたものである。用人時代、先代藩主が世継ぎを決める際に現藩主を推したことから、隠居前の屋敷をそのまま使うことを許可されたり[注 4]、隠居部屋を藩費で建ててもらったりするなど、現藩主からも好意と信頼を向けられている。隠居したばかりの頃は鬱々としがちで、息子夫婦を心配させた。しかし、30年ぶりに昔通っていた無外流中根道場や保科塾に通い始めたり、釣りの楽しみも覚えたり、友人である町奉行の佐伯が持ち込んでくる事件の調べを行なったりし始め、充実した毎日を過ごすようになった。
三屋家
又四郎
清左衛門の長男で、三屋家の現当主。清左衛門から家督を譲られると、勘定方見習いとして城勤めを始めた。第5話の頃までに、見習いを終わって正式に勘定方となった。遠藤派の会合にも、しばしば顔を出しているが、父と同様それほど熱心というわけではない。
里江
又四郎の妻。郡奉行を務めた服部弥右衛門の末娘で、清左衛門が気に入って息子の嫁に迎えたが、今も「よくできた嫁だ」と評価している。男児を一人出産した。
喜和
清左衛門の妻で、2男3女を産んだ。清左衛門が国元で隠居生活を始める3年前に亡くなった。
奈津
清左衛門の三女。18歳の時に御蔵方の杉村要助に嫁いだ。夫が外に女を作っているのではないかと悩んでげっそりとやつれ、清左衛門や里江を心配させた。
他の子どもたち
次男は秋吉家に婿入りし、長女は市村家に嫁に行った。次女は幼時に病死した。
中立派
佐伯熊太
町奉行元服前から、清左衛門と共に無外流中根道場に通った親友。清左衛門の2歳年上。時々清左衛門の隠居部屋を訪れては、抱えている事件の解決の手助けを求める。
山内勘解由
大目付。清廉潔白で穏やかな人柄であり、家老相手にもはっきりとものが言える骨太な人物。佐伯を通じて清左衛門のことを知り、非公式の調査を依頼するようになった。
相庭与七郎
江戸藩邸で近習頭取を務め、30代半ばながら藩主の側近の中では実力者と見られている。藩主の命を受け、密かに帰国して清左衛門に派閥争いについて、特に石見守がそれに巻き込まれている件についての情報を求めた。
船越喜四郎
先代藩主の死に伴って引退した清左衛門と交代して、現藩主の用人となった。40歳前の切れ者。清左衛門宅に石見守毒殺の真相についての情報をもたらすと共に、黒幕である朝田家老に処分を言い渡すに当たって、清左衛門の同席を求めた。
樋口孫右衛門
大目付配下の徒目付。石見守毒殺の真相究明を船越用人から命じられ、その使命を果たした。
遠藤派
遠藤治郎助(先代)
30年前の政争の時は
中老として、筆頭家老の山村喜兵衛を助けた。山村を失脚させた先代の朝田弓之助が3年で政権運営に行き詰まると、代わりに筆頭家老に就任し、朝田派に厳しい処罰を下した。10年筆頭家老を務めた後、息子に家督を譲り、山村喜兵衛の嫡男万之丞にその座を譲ったが、彼は遠藤の息子が家老に就任するまでの傀儡に過ぎず、実権は遠藤が握っていた。
遠藤治郎助(当代)
先代の治郎助が隠居して家督を継いだ4年後に、山村万之丞から筆頭家老職を引き継いで、6年前に朝田派が巻き返して政権を奪取するまでの8年間、その職を務めた。
安富忠兵衛
5年前まで中老を務めた。先代の遠藤治郎助を補佐し、彼が引退した後も遠藤派の政権保持に辣腕をふるった。現在は、政敵であるはずの朝田家老とたびたび面会している姿が目撃されている。城の大手前で切腹した安富源太夫の本家に当たる。
間島弥兵衛
家老。実務に詳しい。遠藤派が実権を握った時も、その後朝田派が政権を奪った後も、ずっと家老職にとどまっている老人。これまで間島は派閥争いには加わらなかったが、ある時遠藤派の集会と知らずに参加した論語の読書会で、清左衛門は間島の姿を発見する。
桑田小左衛門
元中老。安富忠兵衛が藩政から身を引いた後、遠藤派の番頭と呼ばれた。
杉村要助
清左衛門の三女奈津の夫。御蔵方に勤めている。密偵として朝田派の動向を探っていた。
安西佐太夫
勘定方で40石足らずの禄高だが、外記流の鉄砲の名手として名高い。清左衛門とは遠藤派の会合で知り合い、家の方角が同じなので時おり途中まで一緒に帰る。年は40歳前後で、離婚歴がある。寡黙だが礼儀正しい安西の人柄を気に入っている清左衛門は、昔世話をしたことがある江戸藩邸奥女中の松江を妻にするよう勧めた。
その他の遠藤派
組頭の細谷孫三郎と吉岡主膳、番頭の中野峯記、郡奉行の栗原又兵衛、物頭の尾形七郎右衛門、御書院目付の鳥飼吉兵衛、銃隊隊長の植田与一郎、小姓組の杉浦兵之助、代官の臼井甚吉、花井六弥太(役職不明)ら。
朝田派
朝田弓之助(先代)
30年前の政争の時は
組頭。時の筆頭家老山村喜兵衛を讒訴によって失脚させ、政権を握った。しかし、3年で政権運営に行き詰まって、遠藤治郎助(先代)によって失脚させられる。
朝田弓之助(当代)
6年前、遠藤治郎助(当代)から政権を奪って家老に就任した。
山根備中
組頭。家柄では藩主家よりも古いとされる名門の出。しかし、代々その名家意識と古くさい権威主義が嫌われて、10代ほどの家系で執政入りしたのはただの2人。当代の備中も万年組頭に甘んじている。思い込みが激しく、過激な行動に走ることがある。
安藤市兵衛
組頭。
黒田欣之助
近習組。清左衛門とおみよとの会話の中身を確かめに来た。朝田派の中で頭角を現しつつある。朝田家老が江戸の石見守に向けて黒田を使者に立てた。
村井寅太
郷方回り。直心流の遣い手。黒田が江戸に使いとして立った時、護衛についた。
成瀬喜兵衛
先代の道場主時代に中根道場で師範代を務めた。その頃は鬼の喜之助と呼ばれる剣客で、清左衛門や入門したての頃の中根弥三郎もしごかれた。にわかにボケてしまったという噂が立った。しかし、それは擬態であった。
金井祐之進
郡奉行配下で山村回り。遠藤派の会合に紛れ込んで騒動を起こした。金井奥之助の息子。
石見守信弘
現藩主の弟。器量は現藩主よりも上だと噂された人物で、先藩主も跡継ぎ選定で、石見守の方を選ぶべきかと迷った経緯がある。現在は、徳川家に仕える旗本として3000石を賜っている。健康で賢いと評判の息子が2人(光五郎信正と友次郎信成)いる。朝田家老が接触を図っていたが、34歳で健康だったにもかかわらずにわかに病死し、毒を盛られたのではないかという噂が立った。
多田掃部
野塩村の豪農。朝田家老が石見守と共に訪問し、石見守の次男友次郎を藩主の養子に送り込むための運動資金を、黒尻野百町歩の開墾請負許可を餌に願った。掃部は、その資金が養子のための運動ではなく、朝田の地盤固めのために使われることを知りながら、黙って資金提供を行なった。
その他
中根弥三郎
清左衛門や佐伯が若い頃に修行した、紙漉町にある
無外流道場の主。清左衛門より3歳年下で、入門当時は淵上と言った。少年の頃から天才の名をほしいままにし、先代の中根与一右衛門に見込まれて、師の娘杉乃と結婚して道場を継いだ。隠居した清左衛門は、10日に1度の割合で、30年ぶりの道場通いを始めた。
保科笙一郎
清左衛門の学問の師であった保科穆山(ぼくざん)の息子で、鶴子町にある保科塾を継いだ。36歳の若さながら、4年前に江戸の遊学から帰国してすぐに、藩校彰古館の助教に任命された。いずれは学監(藩校の長)の地位に進む人物であると見られている。清左衛門は、30年ぶりに保科塾に通って、経書を学び始めた。
平松与五郎
中根道場の高弟。城では御兵具方に勤めて100石を賜る。3年前に妻を病気で亡くしたが、清左衛門の尽力で御番頭加瀬伝八郎の娘、多美と再婚した。
みさ
花房町にある小料理屋「涌井」の女将。年は30前後。男運が悪く、苦労してきた。元は万年町の油屋「三海屋」の嫁だったが、結婚して2年で夫が急死してしまった。ある事情から実家に戻ることができなかったみさは、料理茶屋で住み込み奉公を始めた。それを哀れんだ元の舅が、売りに出ていた店を買い取ってみさにやらせたのが「涌井」の始まりである。


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