日本の政治家三宅 雪子みやけ ゆきこ
2013年4月21日、東京都渋谷区での街頭演説にて
生年月日 (1965-03-05) 1965年3月5日
出生地 アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
没年月日 (2020-01-02) 2020年1月2日(54歳没)
死没地 日本 東京都大田区城南島
出身校共立女子大学卒業
前職フジテレビジョン従業員
所属政党(民主党(小沢G・原口G)→)
(国民の生活が第一→)
(日本未来の党→)
(生活の党→)
(生活の党と山本太郎となかまたち→)
無所属
称号文学士
配偶者有
親族石田博英(祖父)
三宅和助(父)
公式サイト三宅雪子ジャーナル(アーカイブ)
三宅 雪子(みやけ ゆきこ、本名:森安 雪子[1]、1965年〈昭和40年〉3月5日 - 2020年〈令和2年〉1月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。祖父は衆議院議員で大臣、官房長官を歴任した石田博英、父は元外交官で中央大学総合政策学部教授の三宅和助。 外交官の父、三宅和助の赴任先であるアメリカ合衆国ワシントンD.C.で生まれる。なお、外交官の子弟は、出生地主義による国籍の取得はできないため、アメリカ国籍は取得していない。逗子市立久木小学校、逗子市立久木中学校、桐朋女子高等学校、玉川学園女子短期大学、共立女子大学文芸学部卒業[2]。名前の由来は、誕生時に雪が降っていたためとされる[3]。 1988年(昭和63年)フジテレビジョン入社。営業局、報道局、国際局、CSR推進室に勤務。報道局では経済部記者として為替と株式を担当。フジテレビ社員の男性と結婚。 2009年(平成21年)7月27日に、父と関係が深く三宅自身も報道局時代に取材経験のあった民主党代表代行(当時)の小沢一郎から出馬要請を受け、フジテレビを休職。第45回衆議院議員総選挙に福田康夫の地盤である群馬4区からの立候補を表明した[4]。衆議院選挙出馬に伴い父三宅和助の知名度を優先し、旧姓の三宅姓を通称名として名乗る。政治資金収支報告書の届出は実名である森安雪子。群馬4区は、三宅の祖父・石田博英の秘書を務めた中島政希も立候補を希望していたが、祖父石田博英と親交のあった小沢一郎の裁定により祖父石田博英の名声と父和助人脈を勘案するとともに女性候補の方が票を集めるとの理由により三宅を公認候補とした[5]。前回の第44回衆議院議員総選挙で次点の民主党公認候補に約6万2千票差で圧勝した福田の得票数103,852票(得票率51.9%)に、得票数91,904票(得票率45.9%)で約1万2千票及ばず落選した。その後、惜敗率88.4%で重複立候補していた比例北関東ブロックから復活当選した[6](中島は比例単独立候補で当選)。 2011年6月2日の衆議院本会議で行われた菅内閣不信任決議案の採決では、党の反対方針に反して棄権したが[7]、三宅は医師の診断書を提出していたため、不問に付された[8]。 2012年(平成24年)1月22日に、自身のTwitterで民主党の電気料金値下げ隊副隊長に就任したことを公表[9]。同年の消費増税をめぐる政局では、野田内閣による消費増税法案の閣議決定に抗議して党広報副委員長の辞表を提出し[10]、4月23日の党役員会で受理された[11]。6月26日の衆議院本会議で行われた消費増税法案の採決では、党の賛成方針に反して反対票を投じた[12][13]。7月2日には山岡賢次らを介して離党届が提出された[14]。民主党は7月3日の常任幹事会で離党届を受理せず除籍処分とする方針を決定し[15]、7月9日の常任幹事会で正式決定した[16]。 同年7月11日、国民の生活が第一の結党に参加した[17]。国民の生活が第一では選挙対策委員会の副委員長に就任する。同年11月16日、第46回衆議院議員総選挙において、群馬4区から、当時の内閣総理大臣である、野田佳彦が地盤(船橋市)とする、千葉4区への国替えが発表され[18]、三宅は「(群馬)4区の皆様には申し訳ないが、首相と戦えという命を受けた」[19]とコメントした。12月16日の第46回衆議院議員総選挙においては、得票数28,187票(得票率9.9%)で、当選した野田の得票数163,334票(得票率57.3%)に13万5千票差をつけられ、比例復活もならず落選した(得票率9.9%。供託金没収)。 2013年(平成25年)7月、第23回参議院議員通常選挙で生活の党公認候補として参議院比例区から立候補したが、党として議席が獲得できず落選した[20]。 2015年(平成27年)4月、党支持者を名乗る人物から悪質な嫌がらせと党幹部の対応を理由に生活の党を離党した[21]。尚、悪質な嫌がらせをしたとされる人物により名誉毀損罪で刑事告訴され、2016年(平成28年)6月にさいたま地方検察庁に書類送検され起訴猶予処分となった。 落選後も政治資金規正法に基づく政治資金管理団体の「アジア政経フォーラム」を維持し、その代表として政治活動を続けていた[22]。2019年に7月に日刊ゲンダイに自らの記事『高齢者はなぜネトウヨにはまるのか』が連載されたことを機に自身の肩書きをルポライターとした[23]。
経歴
生い立ち
フジテレビジョン在職時
政治家として2012年5月、シンガポールにて国務大臣(外務・内務担当)マサゴス・ズルキフリ