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みやけ いっせい
三宅 一生
2016年
生誕三宅 一生(みやけ かずなる)[1]
(1938-04-22) 1938年4月22日
日本・広島県広島市
死没 (2022-08-05) 2022年8月5日(84歳没)
日本・東京都[2]
国籍 日本
出身校多摩美術大学図案科[3]
職業デザイナー
受賞毎日デザイン賞(1977年)
ヒロシマ賞(1990年)
フランス芸術文化勲章コマンドール(1991年)
朝日賞(1992年)
紫綬褒章(1997年)
高松宮殿下記念世界文化賞・彫刻部門(2005年)
京都賞思想・芸術部門(2006年)
文化勲章(2010年)
フランスレジオンドヌール勲章コマンドール(2016年)
公式サイトmds.isseymiyake.com
三宅 一生(みやけ いっせい、Issey Miyake、1938年〈昭和13年〉4月22日[4] - 2022年〈令和4年〉8月5日)は、日本のファッションデザイナー[5][6][7][8][注 1]。広島県広島市東蟹屋町(現在の同市東区)出身[4][12][13][14][15]。 広島市立尾長小学校在学中7歳のとき被爆[4][13][14][15][16][17]。広島大学附属東雲中学校[18]?広島県立広島国泰寺高等学校卒業[15][19]。小学校高学年のときの担任が絵の先生で、絵を描く楽しさを教えてもらう[20]。広島の美術館や岡山県倉敷の大原美術館にもよく通った[20]。ルオーが好きだったという[20]。周囲から「将来は絵描きになるの?」とよく聞かれたが、絵描きは貧乏イメージがあったから、大人になってからの職業にしようとは考えなかった[20]。また当時は被爆都市を励ますという意味での宝塚の広島公演がよくあり、5歳上の姉に連れて行ってもらった[20]。当時の宝塚のトップスターは、越路吹雪や乙羽信子だった[20]。姉の影響は大きく、姉が洋裁学校から『ヴォーグ』や『ハーパーズ バザー』などのアメリカのファッション雑誌を持ち帰り、その写真を筆と墨で模写したりした[20]。小・中・高と一貫して美術部に所属[20]。焼け野原から復興する広島の街、とりわけ通っていた国泰寺高校の近くにあった丹下健三設計の広島平和記念公園や、建設時に「なぜ原爆を落としたアメリカ人が広島に橋を作るのか」と[15]大きな議論を呼んだイサム・ノグチ設計の平和大橋のデザインに「これがデザインか」と感銘を受ける[1][8][13][15][21]。そり返った「東」の橋柱の先端には、生命を表す太陽、「西」の欄干は、魂を運ぶ舟の手すりがかたどられていた[22][23]。東洋と西洋の境を越えたノグチのデザインは、少年の行く道を決定づけた[5][6][22]。
経歴
生い立ち