三子教訓状
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「三本の矢」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「三本の矢 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
毛利元就が教訓状を書いた勝栄寺

三子教訓状(さんしきょうくんじょう)は、中国地方戦国大名毛利元就1557年弘治3年)に3人の子(毛利隆元吉川元春小早川隆景)に書いた文書。

これを含む「毛利家文書」は重要文化財に指定されており、毛利家文書405号・毛利元就自筆書状として山口県防府市毛利博物館に収蔵されている。
概要

1557年(弘治3年)11月25日に元就が周防国富田(現・山口県周南市)の勝栄寺で書いた書状[1]。60歳を越えていた元就が、3人の息子たちに(他の子どもたちを含めて)一致協力して毛利宗家を末永く盛り立てていくように後述の14条に渡って諭しており、本書の長さは約3mに及んでいる[2][3]

1557年弘治3年)4月、元就は周防・長門両国の制圧を完了し吉田郡山城に引き揚げたが、周防で大内氏の残党による一揆が起きたので、鎮圧のために11月18日富田に出陣した。教訓状は、富田滞在中の11月25日付で三子宛てに出されたものである[1]

この教訓状は文字通り3人の息子たち宛てに書かれたものではあるが、一族協力を説いた倫理的な意味だけでなく、安芸の一国人領主から、五ヶ国を領有する中国地方の領主に成り上がった毛利氏にとって、戦国大名としては独自の「毛利両川体制」とも呼ぶべき新体制をとることを宣言した政治的性格をおびている[4][5]。それで、「兄弟が結束して毛利家の維持に努めていくことの必要性を説き、元就の政治構想を息子たちに伝えた意見書であり、単なる教訓とは異なる[6]

この教訓状の歴史的意義を述べるとすれば、これはただ単に三兄弟の結束を説いたというものではなく、毛利氏の「国家」の核となる毛利家を保つために家督の隆元の主君としての地位を明確にしたものであり、それによって兄弟・一族のなかでの内紛を避け、いわゆる下剋上を禁止すると宣言したものである[7]

元就からの手紙に対し、元就と共に出陣して周防に滞在していた隆元が返書している。この返書は「毛利隆元吉川元春小早川隆景連署請書」(毛利家文書407号)と呼ばれる9条かならなる内容で、元就の教訓状の内容について了承した意を記している。この請書は教訓状の日付の翌日である11月26日付けで書かれており、隆元・元春・隆景の三者の連名と花押があるが、日付が翌日であることや本文・書名とも全て隆元の筆跡であることから、隆元が直ちに書いた後に弟2人に回覧して事後承諾で花押を書かせ、元就に提出したものと考えられている[8]

しかし、元就の意図は三兄弟でよく話し合って協力して欲しいという趣旨であるため、これが逆に不満の素になったと推察され[9]、教訓状の続きとなる短い自筆書状(毛利家文書406号)を隆元宛てに書いている。この書状では、「当家のことをよかれ思うものは、他国はもとより、当国にもいない」「毛利家中にも(中略)当家をよく思わない者もいる」「兄弟の仲が悪くなれば(毛利家は)滅亡すると思うように」などと書かれている。

毛利家には元就直筆の長文書状がたくさん残されているが、この教訓状だけが有名になったのは孫の毛利輝元によるものである[10]。慶長5年9月、関ヶ原合戦以後、輝元が祖父の教訓状を家臣の前で読み上げていることが知られており(『老翁物語』)[10]、中国全域に亘っていた領国をわずか二か国に減らされた上に、先行きの不安から揺れる家中、この危機を乗り切るために輝元が持ち出したのが祖父の教訓状であった[11]。祖父の金言を振りかざすことで、血族の団結の強さを家中に、そして世間に知らしめる必要があったためである[11]
三矢(さんし)の訓(おし)え安芸高田少年自然の家にある三矢の訓碑

この逸話のエピソードは、概ね次の通りである。晩年の元就が病床に伏していたある日、隆元・元春・隆景の3人が枕許に呼び出された。元就は、まず1本の矢を取って折って見せるが、続いて矢を3本を束ねて折ろうとするが、これは折る事ができなかった。そして元就は、「1本の矢では簡単に折れるが、3本纏めると容易に折れないので、3人共々がよく結束して毛利家を守って欲しい」と告げた。息子たちは、必ずこの教えに従う事を誓った

このように、三子教訓状と似通っている訓戒ではあるが、教訓状には「三本の矢」については記述がない。そもそも史実では、元就が死の間際に3人の息子に教訓を残すことは不可能な状況であった(隆元は元就より8年も早く亡くなり、元春は山中幸盛らの率いる尼子再興軍との戦い出雲国で在陣中であり、元就の死を見届けたのは隆景と輝元のみ)。

この逸話に関する古い文献としては、江戸時代に編纂された「前橋旧蔵聞書」があり、死に際の元就が大勢の子どもたちを呼び集めて「1本の矢では簡単に折れるが、多数の矢を束ねると容易に折れないので、皆がよく心を一つにすれば毛利家が破られることはない」と教えたとされる。この話では、史実と合致して隆元や元春がその場に登場しないことから、このエピソードが三矢の教えの逸話へと変化して伝えられた可能性がある。
内容(現代語訳).mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}}毛利元就肖像画毛利隆元肖像画吉川元春肖像画小早川隆景肖像画
第一条


何度も繰り返して申すことだが、毛利の苗字を末代まで廃れぬように心がけよ。

第二条


元春と隆景はそれぞれ他家(吉川家小早川家)を継いでいるが、毛利の二字を疎かにしてはならぬし、毛利を忘れることがあっては、全くもって正しからざることである。これは申すにも及ばぬことである。

第三条


改めて述べるまでもないことだが、三人の間柄が少しでも分け隔てがあってはならぬ。そんなことがあれば三人とも滅亡すると思え。諸氏を破った毛利の子孫たる者は、特によその者たちに憎まれているのだから。たとえ、なんとか生きながらえることができたとしても、家名を失いながら、一人か二人が存続していられても、何の役に立つとも思われぬ。そうなったら、憂いは言葉には言い表せぬ程である。

第四条


隆元は元春・隆景を力にして、すべてのことを指図せよ。また元春と隆景は、毛利さえ強力であればこそ、それぞれの家中を抑えていくことができる。今でこそ元春と隆景は、それぞれの家中を抑えていくことができると思っているであろうが、もしも、毛利が弱くなるようなことになれば、家中の者たちの心も変わるものだから、このことをよくわきまえていなければならぬ。

第五条


この間も申したとおり、隆元は、元春・隆景と意見が合わないことがあっても、長男なのだから親心をもって毎々、よく耐えなければならぬ。また元春・隆景は、隆元と意見が合わないことがあっても、彼は長男だからおまえたちが従うのがものの順序である。元春・隆景がそのまま毛利本家にいたならば、家臣の福原と上下になって、何としても、隆元の命令に従わなければならぬ筈である。ただ今、両人が他家を相続しているとしても内心には、その心持ちがあってもいいと思う。

第六条


この教えは、孫の代までも心にとめて守ってもらいたいものである。そうすれば、毛利・吉川・小早川の三家は何代でも続くと思う。しかし、そう願いはするけれども、末世のことまでは、何とも言えない。せめて三人の代だけは確かにこの心持ちがなくては、家名も利益も共になくしてしまうだろう。

第七条


亡き母、妙玖に対するみんなの追善供養も、これに、過ぎたるものはないであろう。

第八条


五龍城主の宍戸隆家に嫁いだ一女のことを自分は不憫に思っているので、三人共どうか私と同じ気持ちになって、その一代の間は三人と同じ待遇をしなければ、私の気持ちとして誠に不本意であり、そのときは三人を恨むであろう。

第九条


今、虫けらのような分別のない子どもたちがいる。それは、七歳の元清、六歳の元秋、三歳の元倶などである。これらのうちで、将来、知能も完全に心も人並みに成人した者があるならば、憐憫を加えられ、いずれの遠い場所にでも領地を与えてやって欲しい。もし、愚鈍で無力であったら、いかように処置をとられても結構である。何の異存もない。しかしながら三人と五龍の仲が少しでも悪くなったならば、私に対する不幸この上もないことである。

第十条


私は意外にも、合戦で多数の人命を失ったから、この因果は必ずあることと心ひそかに悲しく思っている。それ故、各々方も充分にこのことを考慮せられて謹慎せられることが肝要である。元就一生の間にこの因果が現れるならば三人には、さらに申す必要もないことである。


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