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三好 重臣
生誕1840年11月14日
死没 (1900-11-28) 1900年11月28日(60歳没)
所属組織日本陸軍
軍歴1868年 - 1894年
最終階級陸軍中将
墓所愛宕の青松寺
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三好重臣
三好 重臣(みよし しげおみ、1840年11月14日(天保11年10月21日)- 1900年(明治33年)11月28日)は、明治期の日本の陸軍軍人[1]。最終階級は陸軍中将。子爵。幼名は軍太郎。別名は会田春輔。 長州藩士、三好五右衛門の五男として生まれた。1863年、奇兵隊に入隊して参謀職を務めた。1867年、振武隊総監に就任。1868年の戊辰戦争では越後方面に進出して武功を挙げている。 明治維新後は新政府のもとで、1871年、陸軍大佐となり、東北鎮台司令長官、仙台鎮台司令長官、大坂鎮台司令長官を歴任。1877年の西南戦争では、征討第2旅団司令長官として出陣したが、敵に敗れて負傷している。1880年、陸軍中将となり、東部監軍部長、熊本鎮台司令官、東京鎮台司令官、第1師団長、監軍などを歴任し、1894年、予備役に編入された。さらに、枢密顧問官を1897年まで勤めた。1884年7月7日に子爵に叙せられる。1900年、60歳で死去。 なお相続に関して重臣は、放蕩の激しかった長男三好太郎 後妻の梅子(1859年生)は宮城県平民及川林作三女。実子は長男の三好太郎(1863-1938)のみ。 太郎の友人だった南方熊楠の日記や双方の書簡によると、太郎は父の後妻を誘惑したという理由で1885年に勘当同然に米国へ留学させられ、ミシガン大学法科に入学、下宿していた同大学医学部助手ブルワー(Francis W. Brewer、ポルトガル出身)の娘アグネスと懇ろとなり、1890年1月に長女・琴子、翌1891年3月に長男・東一を出産、同年5月に妻子を連れて帰国した[2]。同年7月1日に日本で正式に結婚するが、これは華族の国際結婚の最初となった[3]。1896年に太郎は廃嫡となり、会田太郎に改名、大阪に転居した[2]。 孫の琴子は男爵外松亀太郎の後妻となった[4]。琴子の継子(亀太郎と前妻の子)に俳優の竹内良一(岡田嘉子の前夫)と女優の竹内京子がいる。 孫の三好東一(1891?1970)は祖父死去にともない襲爵し、1918年東京帝国大学農科大学林科大学を卒業、帝室林野局技師として林業試験場に勤務した[5]。その後東大農学部教授となり、ヒノキの研究で日本農学賞
経歴
家族
栄典
位階
1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[8]
勲章等
1884年(明治17年)7月7日 - 子爵[9]