三好達治
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三好 達治
(みよし たつじ)

誕生1900年8月23日
日本大阪府大阪市西区
死没 (1964-04-05) 1964年4月5日(63歳没)
日本東京都大田区田園調布
墓地本澄寺
職業詩人作詞家
言語日本語
国籍 日本
教育学士文学
最終学歴東京帝国大学仏文科
ジャンル短歌翻訳随筆
代表作『測量船』(1930年)
『駱駝の瘤にまたがつて』(1952年)
主な受賞歴日本芸術院賞(1953年)
読売文学賞(1963年)
影響を受けたもの

萩原朔太郎室生犀星

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三好 達治(みよし たつじ、1900年明治33年)8月23日 - 1964年昭和39年)4月5日)は、日本詩人翻訳家文芸評論家室生犀星萩原朔太郎など先達詩人からの影響を出立点とし、フランス近代詩と東洋の伝統詩の手法をそれぞれに取り入れ、現代詩における叙情性を知的かつ純粋に表現し独自の世界を開いた[1][2][3]大阪府大阪市出身。日本芸術院会員。

大阪市西区で印刷業を営む家に、10人兄弟の長男として生まれた。幼少期より病弱で、読書に没頭。中学時代、句誌「ホトトギス」を愛読し、句作に没頭した。父の意向で陸軍士官学校に進んだが、軍人には不向きと悟って中退。旧制三高から東大仏文科へ進んだ。三高時代から詩作を始め、梶井基次郎らと知己を得、のちに同人誌「青空」にも参加した。

詩誌「詩と詩論」「詩・現実」創刊を経て、第1詩集『測量船』(1930年)を刊行。1934年、詩誌「四季」を堀辰雄らと創刊、四季派と呼ばれる新詩人のグループを形成した。『南窗集』(1932年)、『濶ヤ集』(1934年)などでは、自然な感情を4行の平易なことばでうたったが、『艸千里』(1939年)以後は文語の韻律による古典的詩境をつくりあげた。戦後の『駱駝の瘤にまたがって』(1952年)は、その詩業の到達点ともいえる。

詩のほかに、鑑賞文や随想集なども執筆した。1964年に急逝したが、三好達治を明治・大正・昭和3代の第1の詩宗という人もいる。[4]
経歴

1900年大阪市西区西横堀町に父政吉・母タツの長男として生まれる。家業は印刷業を営んでいたがしだいに没落し、市内で転居を繰り返した。小学生の頃から病弱で神経衰弱に苦しみ学校は欠席がちであったが、図書館に通い高山樗牛夏目漱石徳冨蘆花などを耽読した。1914年大阪府立市岡中学に入学。俳句に没頭したほか、雑誌『ホトトギス』を購読した。しかし学費が続かず、2年で中退。

1915年、学費が官費の大阪陸軍地方幼年学校に入校。後に二・二六事件の首謀者として死刑(銃殺)となる西田税と出会い、同志であり親友となる。陸軍中央幼年学校本科を経て1920年(大正9年)に陸軍士官学校に入校するも、翌年に北海道までに及ぶ大脱走をし退校処分となった(この時陸軍士官学校を自主的に退学するには脱走しかなかった)。このころ家業が破産、父親は失踪し、以後は大学卒業までの学資は叔母の藤井氏が請け負った[5]

1922年(大正11年)、第三高等学校(現・京都大学総合人間学部)文科丙類(フランス語必修)に入学。同級の丸山薫吉村正一郎貝塚茂樹桑原武夫らと知り合い、丸山の影響で詩作を始める。また、ニーチェツルゲーネフを耽読する[6]剣道部に所属し、三段まで上がる。

1923年、萩原朔太郎の詩集『月に吠える』に魅了される。同年に刊行された『青猫』『蝶を夢む』にも心酔する。

1925年、第三高等学校卒業[7]後、東京帝国大学文学部仏文科に入学。同じ三高から同学部に進んだ淀野隆三から梶井基次郎(文学部英文科)を紹介され、梶井と中谷孝雄外村茂の創刊した同人誌『青空』に16号から参加[8][9]百田宗治らの激賞を受ける。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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