凡例三好 義興
「三好義興画像模本」 江戸時代 京都大学総合博物館蔵[1]
時代戦国時代
生誕天文11年(1542年)
死没永禄6年8月25日(1563年9月12日)
改名慶興→義長→義興
別名通称:孫次郎
墓所高槻市真上の霊松寺墓地
官位従四位下筑前守
幕府室町幕府御供衆、相伴衆
氏族三好氏
父母父:三好長慶
母:波多野氏(波多野秀忠の娘)
子義資?[2]
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三好 義興(みよし よしおき)は、戦国時代の武将。三好長慶の嫡男で嗣子。将来を嘱望されたが、父より先に早世した。 天文11年(1542年)、三好長慶の嫡男として生まれる。天文21年(1552年)12月25日に元服して孫次郎慶興(よしおき)と名乗った[3]。永禄2年(1559年)2月に父と共に上洛し、3月に正式に義輝と謁見して仕えている[4]。12月18日に室町幕府第13代将軍・足利義輝から「義」の字を賜って義長(よしなが)と名乗る[5]。永禄3年(1560年)1月21日に従四位下・筑前守に叙位・任官された[6]。父が河内飯盛山城に移ると、摂津芥川山城を任されている。天野忠幸は三好氏の本拠地は芥川山城のままであったとし、長慶が三好氏の家督とともに本拠地を義興に譲った後に飯盛山に移ったと説く[7]。 永禄4年(1561年)1月28日、松永久秀と共に正五位下から従四位下に昇叙した[8]。2月1日には父や久秀と共に桐の紋(足利将軍家の紋)の使用を許された。また御供衆・相伴衆に任じられる。 父に劣らず智勇に秀で、六角義賢が京都に侵攻して来た時は7,000の兵を率いて梅津に在陣[9]、松永久秀も7,000の兵を率いて西院に在陣して六角軍と交戦した。この戦いは六角軍が優勢で義興と久秀は押され気味だったが[10]、11月に久秀が反撃して義賢こそ討ち漏らすも永原重澄
生涯
8月に京都北山において伊勢貞孝が六角軍と通じて反乱を起こすと、松永久秀と協力して8,000の兵で9月11日までに討ち取った[12]。また、豊かな教養人でもあり、将軍義輝や公家達からの信望も厚かったという。
しかし永禄6年(1563年)6月に病に倒れた。曲直瀬道三などが介抱したが、病状は悪化し[13]、8月25日、芥川山城において死去した。享年22[14]。『 足利季世記
』は死因を黄疸と伝える[15]。長慶の死後、三好氏は従弟の三好義継が継いだ。義興の嫡男とされる三好義資は三好康長の甥で中村一忠の家老となった横田村詮を頼って米子へ移り、義資の子の一人である義紹は横田一族とともに米子騒動で打ち取られたが、その他の子は農民・町人となって生きのびたという。義興の死の背景には主家征服を目論む松永久秀の毒殺説の疑いがある[18]が、どれも後世に造られた軍記物を典拠とする風聞であり、全く事実無根である。例えば風聞の一つとして、義興が久秀の奸悪を見抜いて排除しようとしたために毒殺されたというものがある[19]。しかし、一次史料には久秀が暗殺したという記述は全く見られない[20]。それどころか、そうした情報を掲載する『足利季世記』や『続応仁後記』でさえも、「毒殺の風聞があった」「松永久秀が暗躍したという人々の雑説があった」と、風聞があったと記載するのみであり、久秀による犯行を断言はしていない[21]。『足利季世記』に至っては、そうした風聞が生じたことについて「如何なる故ありしにや」と懐疑的に言及しており、二次史料・軍記物においてさえ、久秀による義興の毒殺に懐疑的な言及が少なくない[15]。
父の長慶は義興の死で心身に異常をきたし、翌年の永禄7年(1564年)に後を追うように病没している。今谷明は、最愛の息子の死などの不幸が重なり長慶は所謂「恍惚の人」になってしまったと指摘している[18]。
『続応仁後記
』においては義興の器量は父祖に劣らず優れて天下の乱を治める人であったが、早世したことを惜しんでいる。また義興の死因に関して当時から噂があった久秀の毒殺については「雑説」、あるいは久秀が主家に劣らぬ実力を保持していた事を妬んだ者による根拠のないものとしている[15]。